[#表紙(img/表紙.jpg)] 日本奇僧伝 宮元啓一 目 次 [#ここから1字下げ]  序   異能の人[#「異能の人」はゴシック体] 役小角 行  基 陽  勝 仙人群像  泰 澄  行 叡  教 待  報 恩  日 蔵  蓮 寂   反骨の人[#「反骨の人」はゴシック体] 玄  賓 性  空 叡  実 行  巡 増  賀  〔付〕仁 賀 西  行   隠逸の人[#「隠逸の人」はゴシック体] 空  也 教  信 理  満 千  観 平  等  〔付〕桃 水 東  聖 徳一と行空  後 記  文庫版へのあとがき [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   序  力こぶを作って方法論を展開するというのも、いささか堅苦しすぎて、逸話のやさしい紹介を中心とする本書の内容にあまりそぐわない。また、そのような大げさなことをするのも何となく|面映《おもは》ゆいので、ここでは、本書をこのような形で著すにいたった動機、ないし思惑などをごく簡潔に記すことによって、方法論開陳の本来の序(アインライトゥンク)に代えることにしたい。       *  まず第一に、筆者はかねがね、名僧、高僧などについての評伝や紹介のあり方に、少なからず不満めいた感じを抱いていた。それは、言うまでもなく筆者の個人的な嗜好も絡んでいるのではあるが、多少とも客観的な言い方をすればこういうことになる。  これは名僧、高僧のというだけでなく、一般に歴史上の人物の評伝や紹介についても言えることなのであるが、そうしたものは、その人物の真実に迫るものでなければならない。そこでふつうは、まず、その人物について言及している史料から、さまざまな傍証を考慮しながら史実を抽出することになる。これはまことにその通りでなければならないわけで、後世の熱烈な信奉者の手になる|捏造《ねつぞう》や神話化を、そのまま|鵜呑《うの》みにしているようでは、もちろん話にならない。  しかし、ここには一つの大きな落とし穴がある。それは、その人物が古い時代の人であればあるほど、また、世俗的な権力の中枢から遠い所に位置する人であればあるほど、確かな証拠に乏しくなり、厳密な史実というものにあまりにこだわりすぎると、その人物像は見る影もなく|痩《や》せ細ってしまうということである。また、それほどでなくとも、その人物の魅力が大幅に失われてしまうことは間違いない。 [#ここから2字下げ] から鮭も|空也《こうや》の|痩《やせ》も寒の中 [#ここで字下げ終わり] という芭蕉の晩年の句ではないが、あの有名な空也も、確実な史実、確実な史実という調子で追い詰めていくと、骨と皮ばかりの、語りかけるのもはばかられるような、見るも哀れな痩せ法師でしかなくなってしまう。(まったく実体のない影法師にまではならないと思うが。)  巷間出回っている名僧、高僧の評伝で、しかもある程度以上きちんとした感じのするものに、何か砂を噛む思いをさせられるものが多いのは、著者の書き方の問題をはずせば、たいがいはこのためであると思われる。(かといって、宗門の宣伝パンフレットまがいのものが面白いわけでも、もちろんない。部外者にとってはばかばかしくつまらなく、これまた砂を噛む思いをさせられる。)  たとえある逸話の内容が史実ではないとしても、そうした逸話があるということ、そしてまた後世の人びとが、そうした逸話によってその人物を理解していたということは、これまた紛れもない史実である。史実かどうか分からないものが多いということを明確に認識した上で、古来伝えられている逸話を中心に据えて評伝を試みたものが、もっと適当な数あってもよさそうな気がするが、どうも実際にはそうではない。堀一郎氏の『空也』(吉川弘文館)、唐木順三氏の『無用者の系譜』(筑摩書房)などは、筆者の知るかぎり、かなりの例外の部類に属するように思われる。  聖徳太子は一度に七人の話を聞き分け、空海は今でも全国を|行脚《あんぎや》しており、空也の|数珠《じゆず》は重い碁盤を引き寄せ、西行はゾンビを造り、良寛は|筍《たけのこ》のために床に穴を開けた。本当とはとても思えない、ないし本当かどうか分からない、こういった話でもって、かつての日本人は聖徳太子を、空海を、空也を、西行を、良寛を理解してきたのである。つまり、こういった話は、かつての日本人の一種の基礎知識であったわけである。もしもこうした話を切り捨ててばかりいたならば、やがてわれわれは、かつての日本人がそうした基礎知識を前提にして書いたり語ったりしたことを、まったく理解できないことになるであろう。「史実」追究のかたわら、たとえ|荒唐無稽《こうとうむけい》な逸話であろうとも、それを現代の人びとに、また後世の人びとに、何らかの形で伝えるというのも、やはり必要なことなのではないだろうか。  第二。とくに戦後になってから、「人間○○」といったテーマ、タイトルの名僧伝、高僧伝の類が好んで出版されるようになり、今日に至っている。これには、昭和二十一年一月の天皇の「人間」宣言と根底において通ずるものがはっきりとあると思われるが、これは今は措くとして、この一見好感がもてそうな「人間○○」が、実はかなりの|曲者《くせもの》ではないかと筆者は思う。 [#ここから2字下げ] 仏もむかしは凡夫なり 我等もつひには仏なり [#ここで字下げ終わり] というのは、『平家物語』に出てくる|白拍子《しらびようし》の|祇王《ぎおう》が歌ったとされる|今様《いまよう》の前半部である。仏もかつては、欲望や迷いに振り回されるわれわれと同じ只の人であった。それが仏になったというのは、|仏性《ぶつしよう》(仏になる素質)があったからである。その仏性は、生きとし生けるものすべてに具わっている(|一切衆生悉有仏性《いつさいしゆじようしつうぶつしよう》)と言われているのであるから、今は愚かしい限りのわれわれも、いつかは仏になることができるはずである。これが、この今様の前半部の言わんとするところである。  好意的に解釈すれば、「人間○○」というアプローチのしかたは、いかなる名僧、高僧といえども人間であるからには、われわれのごとき只の人と本来は変わるところがない、だからこそわれわれもという、この今様と同じような希望をもたらしてくれる、ということにでもなろうか。しかし、本当にそのような希望をもたらしてくれるのかというと、いささか疑問なしとしない。多少意地悪く言えば、むしろ、「人間○○」流は、われわれもあちらの方に行くことができるのだという希望を与えるのではなく、あちらをわれわれの方に引きずり下ろし、あちらもわれわれも所詮人間で同レヴェルだといって事足れりとする、自堕落の安心感を与えるものではないであろうか。  また、戦後流行した歴史観や人間観も絡んでくるのであるが、「人間○○」流のよって立つところは、還元主義ということになろうか。つまり、個人の考えや行動は、時代に還元され、社会に還元され、家庭環境に還元され、最近流行の精神分析では、幼児体験とか集合的無意識とかに還元される。やがては、脳の内部構造と機能に還元され、遺伝子に還元されるということにも、冗談ではなく、なるに違いない。  こうした還元主義がそれ自体として悪いとは思わない。思わないどころか、人間を理解するための重要な武器の一つである(あるいは、可能性としてそうである)ことは確かであるとさえ思う。しかし、それはあくまでも武器の一つであって、すべてではないとも思う。現に、還元主義で名僧、高僧をきれいに分析した評伝を読んで、その鮮やかな分析の手腕には感心させられるとしても、分析の対象になっている当の人物の魅力はどこかに消えてなくなっており、まあ、この人はこういう人だったんですな、そういったところでしょうかね、という読後感しか残らず、何かつまらないという印象をもったことのある人が(少なくとも筆者の知るかぎりでは)多いはずである。  こうした評伝で、還元主義的な分析を行なった著者は、おそらく初めは、その分析の対象である人物に多少なりとも魅力を覚えたり、深い関心を抱いたりしていたに違いない。何か訴えるものがあったからこそ、一つ調べてみようと思ったはずである。しかし、出来上がった評伝には、著者が初めに覚えていた魅力も、抱いていた深い関心も顔を出してこない。実証主義で扱える、ないし扱うべき特定の問題を、論文として論ずるというのであればともかく、そうでない問題の立て方をしているはずのときに、そこまで禁欲的でなければならないと思いこむというのは、たいがいの人が多くの場面で覚える、時と所を超えた共感そのものを否定する、一種のニヒリズムのなせる業ではないであろうか。  実は、先ほどの今様は、 [#ここから2字下げ] 何れも仏性|具《ぐ》せる身を 隔つるのみこそ悲しけれ [#ここで字下げ終わり] と続く。前半だけを見ると、仏も凡夫も同じだと単純に考えてしまいそうになる。ところが後半はこれを逆転して、同じはずなのにどうしてこうも違うのであろうか、どこがどう違ってわれわれは欲と迷いの苦しみの海に溺れつづけているのであろうか、という嘆きをせつせつと詠い上げている。この、われわれ凡夫と仏の違いは、おそらく「人間○○」式の人間主義(ヒューマニズム)、還元主義では扱いきれないであろう。  還元主義で扱えるところは還元主義で扱い、それでは扱えないところ、断絶したところは、無理に還元主義を持ちこまず、その断絶を断絶としてじっと見つめて、いわば啓示のようなものが訪れるのを待つ、このような評伝がもっとあってもよいのではないか。と、このように思われてならない。  さて、本書で取り挙げたのは、いわゆる奇僧たちである。何をもって奇となして人物を選ぶかということについては、特にはっきりとした基準はない。あえて言えば、常人では思いもつかない、ないし、たとえ思いついたとしてもとうてい実行できそうもないことを、敢然と、あるいは平然とやってのけてしまったという逸話が伝えられている僧で、筆者の心に鮮烈なイメージが焼きつけられており、折に触れて面白く、感慨深く思い出される人物、ということにでもなろうか。であるから、筆者以外の人が奇僧伝を編むとすれば、かなり違った人選になることは疑いない。  結局、筆者が選んだ奇僧は、遁世の士が中心になった。遁世の士とは、俗を離れて出家したものの、大寺院にはびこる俗気を嫌って、ないしそこに安住することにみずからの道を見出すことができず、またそこから飛び出してしまった、いわば二重の出家を行なった人のことである。あるいは、二重の出家を実際に行なったわけではないが、日々の生活態度や行動の根本にある心ばえにおいて遁世の士と変わらない人までを、広く遁世の士と呼んでかまわないならば、本書で取り挙げた奇僧は、すべて遁世の士であると言える。  もっとも、遁世の士と一口に言っても、深山に入ったままめったに里に姿を現わさなかったという陽勝仙人から、京の四条河原という喧噪の巷に住んだ空也上人に至るまで、実にさまざまである。また、後半生の行基菩薩を除いて、すべて世俗の権力から遠いところに身を置いている。ただ、あいまいながら、おのずからこの奇僧たちには共通の傾向と異なった傾向とがあるようなので、いちおう、「異能の人」「反骨の人」「隠逸の人」の三部に振り分けた。 「異能の人」の部には、目覚ましい神通(力)を発揮したとされる人を、「反骨の人」の部には、世俗の権力に対して強烈な反骨の行動をとった人を、「隠逸の人」の部には、徹底的に粗末な衣食住を楽しんだ、いわゆる|頭陀行《ずだぎよう》の人を収めた。もちろん、この分類が最上であるとは筆者も思っていない。他の部に入れてもおかしくない人もいるし、また、別の基準による分類も十分に可能であると思う。  初め、筆者は、奇僧としてかなりの数の候補を考えてみた。しかし、残念ながら、次の二つの理由によって大幅に削除することになった。  第一には、ともかく逸話を中心に話を進めるという方針であったため、同工異曲の逸話の持ち主をあまりずらずらと並べたてるというのは、筆者の筆力の程度を冷静に鑑みて、読者にとってかなり退屈なものとなる恐れがあった。そこで、まったく同じと言ってかまわないような逸話の持ち主については、比較的パンチの強い方、比較的読者に名が知られている方、より多くの説話文献に言及されている方を選んだ。それでも捨て難い人については、例えば「仙人群像」といった項を立ててそこに収めたりした。  第二には、禅僧も含め、鎌倉時代以降の人で面白い人はもちろんいるのであるが、逸話の質がそれ以前の人のものと少し趣が違い、その違和感は、筆者としてはいかんともしがたく、思い切って割愛せざるをえなかった。というのは、奈良、平安時代の人の逸話の方が、鎌倉時代以降の人の逸話よりもはるかに面白く、パンチがあるからである。  これは、筆者の印象では、逸話の取り扱い方の時代の差というものと関わりがあるようである。その極端な例が『|宇治拾遺《うじしゆうい》物語』で、この説話集では、逸話そのものに重点が置かれており、その逸話の持ち主の生涯がどうのということには、ほとんど関心が向けられていない。しかし、なまじその人の生涯の中にその逸話をバランスよく配列しようなどという意図がないだけ、逸話そのものが生き生きと光り輝やくのである。これほど極端な例ではないにせよ、『日本|霊異記《りよういき》』から始まり、『往生伝』『|法華験記《ほつけけんき》』をも含め、『|発心集《ほつしんしゆう》』『|撰集抄《せんじゆうしよう》』に至るまで、大筋の傾向はこれと共通しているようである。  それから、奈良、平安時代の人については、まとまった記録というものが、そもそもたいしてなかったという事情がある。したがって、首尾一貫した伝記を著そうとしても所詮無理があり、結局、どういう脈絡なのか、またその人の何歳頃の話なのか、さっぱり要領を得ないまま、出所不明の断片的な逸話が無造作に並べられるという結果になる。ただ、感心させられるのは、こうした伝記の作者たちが、なまじの考証をはたらかせて、そうした断片的な逸話を、首尾一貫した形にまとめ上げようなどとはしなかったということである。それをしなかったからこそ、その断片的な逸話に、今もなお新鮮な衝撃力が保持されているのであろうと思う。  筆者にとっての奇僧とは、つまるところ、いかにも奇僧であるという衝撃力のある逸話が伝えられている人物であると言うことができる。そして、その衝撃力とは、筆者が感じたものであることは言うまでもないが、同時にまた、かつてのわれわれの祖先たちが感じたはず(と、少なくとも筆者には思われる)のものである。このような考えなり印象なりに基づくとき、奇僧というのは、一部の例外を除いて、平安時代いっぱいで終わりを告げる。結果的に、本書で取り挙げた奇僧は、鎌倉幕府が開かれる少し前にこの世を去った西行が、時代的にもっとも新しい。  ただ、禅者で奇僧らしい雰囲気を醸し出している人は数多くいる。それは筆者も認めるのにやぶさかではない。しかし、筆者は禅風というものにうとく、例えば、奇僧中の奇僧と言われる一休宗純にしても、その行動がどこまでおのずからなるものであるのか、どこまで禅者であるがゆえのスタイル、気取りなのか、的確な判断を下す自信を持ち合わせていない。いろいろの人が、いろいろの観点から、いろいろの見解を表明しているが、筆者は疑心暗鬼である。禅界の作法はきわめて独特でしかも|掴《つか》みどころがなく、門外漢のしゃしゃり出る余地はほとんどないように思われる。そこで、禅者でない人の一休論は|眉唾《まゆつぱ》ものであり、また、禅者の一休論も、ほかならぬ禅者の一休論であるからには、門外漢の筆者には額面通りには受け取り難い、というような強迫観念めいた思いに|苛《さいな》まれるのである。したがって、少なくとも当面は、禅者についてとやかく取り挙げるわけにはいかない。(偉い人の名前を出すのも、何か言いわけがましいようで気がひけるが、これは、唐木順三氏が、『無用者の系譜』の中で禅者を取り挙げなかった理由とだいたい同じである。)  こういうわけで、禅者についてはしばらく留保しつつ、鎌倉時代以降の人については、本書では取り挙げないことにした。ただ、『近世|畸人《きじん》伝』に紹介されている桃水だけは、その逸話が短く、かつそうとうに衝撃力があるように思われたので、平等|供奉《ぐぶ》の逸話の参考資料として出した。これだけが例外である。       *  本書で取り挙げた逸話の直接の典拠は以下の通りである。 [#ここから1字下げ] 『日本霊異記』(|景戒《きようかい》著)(板橋倫行校注、角川文庫) 『日本往生極楽記』(|慶滋保胤《よししげのやすたね》著)(井上光貞・大曾根章介校注『往生伝・法華験記』所収、「日本思想大系」7、岩波書店) 『三宝絵詞』(源為憲著)(「大日本仏教全書」111所収) 『大日本国法華経験記』(鎮源著)(井上光貞・大曾根章介校注『往生伝・法華験記』所収、「日本思想大系」7、岩波書店) 『今昔物語』(作者不明)(山田孝雄・山田忠雄・山田英雄・山田俊雄校注『今昔物語』三、「日本古典文学大系」24、岩波書店) 『続本朝往生伝』(大江|匡房《まさふさ》著)(井上光貞・大曾根章介校注『往生伝・法華験記』所収、「日本思想大系」7、岩波書店) 『拾遺往生伝』(三善為康著)(井上光貞・大曾根章介校注『往生伝・法華験記』所収、「日本思想大系」7、岩波書店) 『本朝神仙伝』(大江匡房著)(井上光貞・大曾根章介校注『往生伝・法華験記』所収、「日本思想大系」7、岩波書店) 『後拾遺往生伝』(三善為康著)(井上光貞・大曾根章介校注『往生伝・法華験記』所収、「日本思想大系」7、岩波書店) 『三外往生記』(蓮禅著)(井上光貞・大曾根章介校注『往生伝・法華験記』所収、「日本思想大系」7、岩波書店) 『宇治拾遺物語』(作者不詳)(渡辺綱也・西尾光一校注、「日本古典文学大系」27、岩波書店) 『発心集』(鴨長明著、ただし一部は別人の手になると考えられている)(三木紀人校注『方丈記・発心集』所収、「新潮日本古典集成」、新潮社) 『古今著聞集』(橘|成季《なりすえ》著)(永積安明・島田勇雄校注、「日本古典文学大系」84、岩波書店) 『撰集抄』(西行著と伝えられているが、擬作)(西尾光一校注、岩波文庫) 『|元亨釈書《げんこうしやくしよ》』(虎関師錬著)(「大日本仏教全書」101所収) 『|扶桑隠逸《ふそういんいつ》伝』(|元政《げんせい》著)(清水龍山校閲・音馬実蔵校訳『国訳扶桑隠逸伝 全』、平楽寺書店、昭和五年) 『近世畸人伝』(|伴藁蹊《ばんのこうけい》著)(森銑三校注、岩波文庫) [#ここで字下げ終わり]  このうち、『日本往生極楽記』などを収めてある井上光貞・大曾根章介校注『往生伝・法華験記』には、頭注だけでなく詳しい補注が付けられており、関連史料の探索などを行なう際におおいに役立った。校注者の故井上光貞氏と大曾根章介氏に深甚の謝意を表する次第である。 [#改ページ]   異能の人 [#改ページ]   |役小角《えんのおづぬ》  わが国の仏教史は、|聖徳太子《しようとくたいし》をはじめとし、|鑑真《がんじん》、|最澄《さいちよう》、|空海《くうかい》、|円仁《えんにん》、|円珍《えんちん》、|源信《げんしん》、|覚鑁《かくばん》、|法然《ほうねん》、|親鸞《しんらん》、|栄西《えいさい》、|道元《どうげん》、|日蓮《にちれん》、|一遍《いつぺん》、|瑩山《けいざん》、|蓮如《れんによ》、|隠元《いんげん》、|白隠《はくいん》など、各宗の開祖や中興の祖などをきら星のように連ねている。日本仏教史を概説するとなると、その中心テーマは、いきおい、こうしたきら星たちの教えと実践、そしてその後世の展開ということになる。しかし、これで日本仏教史が尽くされるわけではない。これをいわば表舞台として、裏舞台に当たるものが存在する。その中心が修験道である。  修験道の行者たちは、世間の目をはるかに離れ、人跡まれな深山に好んで分け入り、谷川の水を飲み、木の実を食らい、あるいは岩の洞窟に籠り、あるいは大樹の下を寝ぐらとし、粗末な衣を着し、わずかに|笈《おい》に収まるもの以外に何も持たないという、いわゆる|頭陀行《ずだぎよう》(本書「|徳一《とくいち》と|行空《ぎようくう》」の項を参照されたし)の極端を行なった。  |寺請《てらうけ》制度(檀家制度)で僧の活力と威信が一般に著しく低下した江戸時代には、修験道はおおいに民衆の人気を博した。熱心な地方では、農閑期に農民が本格的な山伏の修行を行なった。また、霊山信仰は爆発的なブームになり、例えば江戸を中心とした関東一円では、富士講とか|大山《おおやま》講などが大々的に組織され、人びとは、山伏の真似をし、こぞって富士山の|浅間《せんげん》神社や大山の|阿夫利《あふり》神社へ参詣の登山を行なった。さらに、江戸市内のあちこちに玩具のような小山を築き、それを富士山に見立てて(江戸っ子は「見立て」を偏愛した)参詣するということまで流行した。ここまでくると、いささかお遊び半分、冗談半分という気がしないでもないが、本当に真面目で熱烈な信者はたくさんいたらしい。  また、幕末維新の頃に現われた二大新宗教である|金光《こんこう》教と天理教は、修験道の世界との濃密な接触の中から生まれている。  江戸時代の民衆宗教を代表するこの修験道であるが、これが「修験道」として明確に独立の分野を確立したのは、平安時代末から鎌倉時代にかけてである。しかしそれ以前から、個人的、分散的にではあるが、山岳に入って激しい苦行に挺身するということはしばしば行なわれた。実在の人物かどうかは別として、本書でも取り挙げた|陽勝《ようしよう》などは、そうした苦行に挺身した典型である。陽勝などは仙人と呼ばれ、いかにも仙人らしく空を飛んだりしている。また、それほどの超能力はなくとも、平安時代に「|聖《ひじり》」と呼ばれた人びとの多くは、山岳での苦行を体験し、そこそこの|験力《げんりき》を発揮している。有名な|空也《こうや》も|性空《しようくう》も、そうした聖であった。  こうした、仏教と山岳信仰との結合は、どの時代まで|遡《さかのぼ》れるかは不明であるが、それを体現した人物として最も古くから諸書に登場するのが役小角である。そのため、後世の人びとからは、修験道の開祖として崇め奉られている。  役小角は、別名を|役行者《えんのぎようじや》、|役優婆塞《えんのうばそく》ともいう。「優婆塞」(在俗の男の仏教信者)という呼称からして分かるように、この人は出家の僧ではなく、在家の人である。奇「僧」を扱うことになっている本書の枠からは、厳密に言えばはずれる人物である。とはいえ、この人は、わが国における仏教の受容形態を考える上で重要な人物でもあり、またそこまで考えなくとも、仏教から力を得て、奇怪至極、興味津々の活躍をした人物でもある。ほんの少しの例外ということでご容赦いただきたい。 [#挿絵(img/fig1.jpg)]  役小角は、大和の国|葛城《かつらぎ》(葛木)の|上《かみ》の郡|茅原《ちはら》の村に、|舒明《じよめい》天皇の六年(西暦六三四年)に生まれたという。  生まれつき知的才能に恵まれ、その博学なこと、右に出る者がいなかったという。やがて、仏教に深く思いを寄せるようになり、若くして家を捨てて葛城山に入り、それから実に三十余年にわたって、岩の洞窟を寝ぐらとし、藤や|葛《かずら》を衣とし、松の実を食物とし、清らかな泉の水で沐浴するという、激しい苦行の生活を送った。そしてこの間、役小角は、|孔雀《くじやく》の呪法を修得したという。(『日本霊異記』上の二八、『三宝絵詞』中、『今昔物語』一一の三、『本朝神仙伝』三)  孔雀の呪法(ないし孔雀明王の呪法)というのは、『大孔雀|明王《みようおう》経』などと呼ばれる初期の密教(|雑密《ぞうみつ》)の経典に述べられている呪法のことである。  インドでは、孔雀は猛毒で恐れられるコブラを好んで食べる鳥だとされていた。(ちなみに、コブラを意味する「ナーガ」ということばは、漢訳仏典ではふつう「龍」と訳されている。)そこから、孔雀は諸々の災厄を取り除いてくれるものとして崇敬され、やがて仏教に取り入れられ、神格化(仏格化?)されて「明王」と呼ばれるようになった。どういうわけかこの「孔雀明王」という言葉は、サンスクリットの原語では女性名詞の扱いになっている。わが国には、見かけによらず平気で残忍なことをしでかす女性を指して、「あの声でとかげ食うかやほととぎす」と風刺する句があるが、何やら一脈通ずるところがあって面白い。  わが国では、古来、孔雀の呪法は、鎮護国家の呪法、なかでも雨乞いの呪法としてたいへん珍重された。|旱魃《かんばつ》、飢饉は、国家財政を破綻させるばかりでなく、民心を動揺させ、場合によっては政治的、軍事的な危機をもたらしかねないものだったからである。では、なぜ孔雀の呪法が雨乞いの呪法になるのかといえば、これには理由がある。  それは、インドでは、孔雀といえば雨ということになるからである。インド亜大陸の大部分では、季節は雨季と乾季にはっきりと分かれる。乾季には雨がまったくといってよいほど降らず、草も樹もちりちりに茶色く枯れる。乾季でもっとも高温になる四月から五月にかけては、至る所で河や池が乾上がり、蛙も土の中で「夏眠」するありさまである。やがて雨季が到来し、かなたの空に黒い雨雲が見えると、まずまっさきに歓呼の声を挙げるのが孔雀である。インドの歳時記では、孔雀の大騒ぎで人びとは雨季の到来を知る、つまり、孔雀は雨を呼びこむめでたい鳥なのである。  さて、孔雀の呪法を修得した役小角は、それによって数々の奇異の験術を駆使することができるようになった。そこで役小角は、諸々の鬼神を意のままに操り、薪や水などもこうした鬼神たちに運ばせる、そして、もしも言うことを聞かない鬼神がいれば、呪法を用いてこれを捕え、きりきりと縛りあげるという、人使いの荒い暴君になった。  あるとき、役小角は鬼神たちを集め、吉野の|金峰山《みたけ》と葛城の峰との間に石の橋を築くよう命令した。もちろん、呪法の力をちらつかせながら、ほとんど恐喝そのものといったやり方でである。さしもの鬼神たちも、これはとてもではないが手に負えない大事業であり、困惑の限りであったが、役小角は、こうした苦情にいっさい耳を貸さなかった。  このようにして大工事は無理やり開始された。役小角はたいへん気が短くせっかちな人で、毎日毎日現場に出て、工事が遅い、何をやっているのだと、鬼神たちを頭ごなしに怒鳴りつけて回った。まさに恐怖の石橋造りであった。  ここに、|一言主神《ひとことぬしのかみ》という名の神がいた。ところがこの神は、はなはだ醜い容貌の持ち主であったため、昼間働くのは恥ずかしいからと、夜間に石橋造りの仕事をした。これを聞き知った役小角、そのような勝手な振舞いを許すわけにはいかぬと言って、猛烈な勢いでこの神を叱責した。(『日本霊異記』上の二八、『三宝絵詞』中、『今昔物語』一一の三、『本朝神仙伝』三)  この石橋造りの逸話は、平安時代にはかなり有名であったとみえ、歌にも取りこまれている。例えば、三十六歌仙の一人として知られる女流歌人|小大君《こだいのきみ》には、「岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くる|侘《わび》しき葛城の神」(藤原|公任《きんとう》撰『三十六人歌合』などに収載)という歌がある。これは、夜明けになって帰るのがいやだと駄々をこねて困らせる男を、この一言主神になぞらえて、ちょっとからかった歌である。  なお、石橋を建造するというこの話は、『三斉略記』(『太平広記』二九一)の、秦の始皇帝が海中に石橋を造ろうとしたという話と軌を一にする。しかもその話の中には、同じく、容貌のはなはだ醜い神が登場し、始皇帝のこの神に対する接し方のまずさによって石橋建造が失敗することになっている。  葛城山は、古くから神聖な山として畏敬の念をもって崇められていた。しかし、地図を見ても分かるように、この山は、深山幽谷というほどの深さはなく、むしろ浅いぐらいである。そのためか、やがて畿内の霊山としては、さらに奥深い場所にある金峰山の方が注目されるようになった。そこで、金峰山が山岳修行の中心地となりつつあった時代の人びとが、金峰山を役小角の名によって権威づけようとして、始皇帝の石橋建造の話を借用した、というのが真相であると思われる。  また、一言主神については、『日本書紀』雄略天皇の四年二月の|条《くだり》に、雄略天皇が葛城山で狩をしていたとき、目の前に突然背のたいへん高い人が現われた、その人の顔立ちは天皇によく似ていた、そしてその人は、みずからを一言主神と称した、とある。これがこの神についてのもっとも古い記述である。  さて、こうして役小角にこっぴどくやられた一言主神は、役小角を怨み、人に|憑《つ》き、託宣のかたちで、「役小角は謀反の下心があり、天皇(文武天皇)を倒そうと企んでおる」と|讒言《ざんげん》した。(また、『三宝絵詞』中などによると、役小角の弟子である|韓広足《からのひろたり》が、理由はよく分からないが師の才能を憎み、妖術をもって同様の讒言を行なったという。)  天皇はただちに勅令を発し、役小角を捕える役人を派遣した。しかし、役小角は当代随一の恐るべき験力の持ち主である。とうてい尋常な手段では捕えることができない。そこで捕縛吏たちは、役小角の母を捕えるという、いささか姑息な、しかしまことに効果的な手段に訴えた。  これには、さすがの役小角も対抗することができず、母を解き放ってもらうためにみずから縛に就いた。朝廷の沙汰は伊豆への島流しであったが、役小角は、まるで陸を走るように、海上をすたすたと走って伊豆に赴いたという。伊豆にあって、役小角は、昼間は沙汰通りおとなしくしていたが、夜になると空を飛び、富士山に上って修行に励むという日々を送った。  三年経った大宝元年(七〇一年)正月、天皇は博士に役小角の件について諮問した。博士の言うには、役小角は只人ではない、大賢聖である、よって早急に釈放し、都に迎えるべきであるという。これによって赦免が下され、役小角は自由の身となった。  気性の荒い役小角は、まずまっさきに、自分を陥れた一言主神に報復を加えた。  役小角は、呪法の力によって一言主神を葛の|蔓《つる》で縛り上げ、谷底にころがした。今でも、葛城山中の谷底には、葛がびっしりとまとわりついている巨岩があり、不思議なことに、いくらその葛を切り払っても、すぐにもと通りになってしまう。一言主神の低く嘆き悲しむ声は、ずっと後の世に至るまで、この谷底に絶えることがなかったという。また、途中で工事が取り止めになった石橋の石の残骸が、吉野と葛城の山中にそれぞれ十数個ずつ散乱しているともいう。  こうして一言主神への復讐を果たした役小角は、しばらく都に留まったが、あるとき、母を鉄製の鉢に乗せ、海のかなたに去っていってしまった。(あるいは空を飛んでどこかへ行ってしまったとも言う。)  後に、|道照《どうしよう》という高僧が、勅命を受けて唐に赴いた。その道照法師が朝鮮半島を旅していたときのことである。五百頭の虎が法師の前に現われ、説法を請うた。虎たちに案内された法師は、|新羅《しらぎ》の山の中で虎たちを相手に法華経の講義を行なった。ふと気がつくと、並みいる虎の中に人がいる。法師が日本語で、「どなたでござるかな」と聞いたところ、 「役優婆塞と申す」 との答が返ってきた。  驚いた法師は、これはわが国の聖人に違いないと思い、講義の高座からそそくさと下りてあらためてその人の姿を求めると、もはや影も形もなくなっていたという。(『日本霊異記』上の二八、『三宝絵詞』中、『今昔物語』一一の三、『本朝神仙伝』三)  役小角は、仏教の呪法を修得しながら、その力を古来の山岳信仰のなかで活用した。当時、仏教は外来の、とくに民衆にとっては得体の知れない宗教であった。役小角が駆使する呪法は、かれが活躍した葛城の山岳に住む人びとを、畏怖の心をもって魅了するきわめて新奇なものであったに違いない。  やがて、役小角は、こうした人びとを統率する首領のようなものになった。当時の朝廷は飛鳥にあり、葛城山は、そこからほんのわずかの所にある。そういう所に、朝廷の支配原理からはずれる、それも人知を超えた薄気味悪い原理で人心を集める人物がいるというのは、朝廷にとって由々しい事態であった。細かな事情は不明であるが、ともかくこれが、朝廷が、謀反の疑いありとして役小角を捕縛しようとした最大の理由であると思われる。  また、富士山が役小角の話に出てくるのは、先の金峰山の場合と同じく、後世の修験道の富士山信仰を、その頃つとに有名になっていた役小角の名のもとに権威づける作為が働いていた、というのが今日の学界の定説である。  ちなみに、修験道、霊山信仰が民衆の間に熱烈に迎えられた江戸時代の寛政十一年(一七九九年)に、役小角は、「|神変大菩薩《じんぺんだいぼさつ》」という称号を朝廷からもらっている。筆者の住まいは、丹沢の霊峰、大山を目の前に仰ぐ座間市にあるが、ここにも「神変大菩薩」の大きな石碑が立っていて、奇怪至極の行者、役小角に思いを馳せさせてくれる。 [#改ページ]   |行《ぎよう》 |基《ぎ》  明治以降になると少しはっきりとしなくなるが、古代、中世、近世を通じて、わが国でもっとも人気を集めた仏教のスーパースターは、おそらく、聖徳太子、行基、弘法大師空海の三人であろう。このことは、『全国寺院名鑑』をはじめ、さまざまなお寺の案内書を見ると、|開山《かいさん》(お寺の創始者)とか仏像の作者として、この三人の名前がおびただしく出てくることからも、容易に察することができる。もちろん、そうしたもので事実を伝えるものはほとんどない。何か起源とか作者とかがはっきりしないものは、権威づけのために、かたっぱしからこの三人の名前が冠せられたというのが事の真相であるが、要するに、それだけ人びとの間に人気があったということである。  行基は、しばしば行基|菩薩《ぼさつ》と、尊称をもって呼ばれている。  菩薩というのは、「|菩提《ぼだい》(さとり)を求めて修行にはげむ人」という意味で、もともとは、さとりを開く前(無数の前生も含めて)の釈尊のみを指した。これが大乗仏教になると、さとりを求めて修行にはげみつつも、生きとし生けるものを、慈悲の心をもって救済しようとする人、つまり、|自利行《じりぎよう》だけでなく|利他行《りたぎよう》も修める人ならば、出家であろうが在家であろうが、すべて菩薩であるということになった。  ちなみに、奈良時代、わが国では、高僧、名僧の主たる尊称は「菩薩」であったが、平安時代以降になると、「|上人《しようにん》」「|聖人《しようにん》」「|聖《ひじり》」などがそれに取って代わり、「菩薩」は影をひそめた。鎌倉時代の|興正《こうしよう》菩薩|叡尊《えいそん》や|忍性《にんしよう》菩薩(どちらも、朝廷から「菩薩」の号をおくられた)などは、かなり例外の部類に入るようである。  行基は、天智天皇の七年(六六八年)に、|和泉《いずみ》の国大鳥郡の|高志《こうし》(たかし)氏の子として生まれた。先祖は|百済《くだら》王であったという。(ただし、『日本霊異記』中の七によれば、俗姓は|越史《こしのふひと》、越後の国|頸城《くびき》郡の人であり、和泉の国大鳥郡は、|蜂田《はちだ》の|薬師《くすし》の子である母の出身地であるという。また『三宝絵詞』中によれば、和泉の国大鳥郡の人で、俗姓は|高階《たかしな》氏。)  ふつうの|分娩《ぶんべん》では、まず赤ん坊が出てくる。そしてそのあとに|胞衣《えな》(胎児を包んでいた膜や胎盤など)が排出され、|後産《あとざん》と呼ばれる。ところが、行基の場合は、胞衣に包まれたまま生まれ出たという。異常出産というわけである。(異常出産は、古今東西、英雄のしるしであるが、仏教でも、脇腹から生まれた釈尊をはじめとして、こうした話は多い。)  両親はこれを不吉なことと思いこみ、生まれたばかりの子を樹の枝分かれしたところに上げ、一晩放置した。今日の私たちにはよく分からないが、これは、異常出産にたいする当時のまじない(樹の股からの再出産)の一種であったのかもしれない。さて、一晩明けて、両親がおそるおそるこれを見ると、この子はめでたく胞衣を出て、おまけに、あろうことか、ちゃんとことばを|喋《しやべ》ったという。びっくりした両親が、この子をあらためて引き戻し、大切に育てたことは言うまでもない。(『日本往生極楽記』二、『大日本国法華経験記』上の二)  少年行基は仏教に心をいたく傾け、近所の村の少年たちといっしょに、仏教のすばらしさを語り合った。この地方は牧畜が盛んで、牛や馬を追う子供がたくさんいた。やがて、こうした子供たちが、その牛や馬を放ったらかし、実に数百人の群れをなしてその仏教|讃嘆《さんだん》の輪の中に入っていった。  困ったのは牛馬の持ち主である。自分の牛馬が必要になったときには、牧童に使いを出すのであるが、その使いまでもいっこうに戻ってこない。どうしたのかと思ってまた使いを出すと、これまた、いつまで経っても戻ってこない。というのも、ミイラ取りがミイラになってしまったようなもので、使いの者たちも、牛馬のことをすっかり忘れて、仏教讃嘆に熱中してしまったからである。  最後には、困りはてた持ち主みずからが出向いていった。これを見ると、行基は小高いところに登り、大声であの牛、この馬に呼びかけた。すると不思議、そのあの牛やこの馬が、行基の呼びかけの順序通りに集まってきて、首尾よくそれぞれの持ち主に牽かれていったという。(『日本往生極楽記』二、『大日本国法華経験記』上の二、『今昔物語』一一の二)  十五歳のとき、行基は出家し、薬師寺に入った。(|具足戒《ぐそくかい》を受けて正式の僧になったのは二十四歳。)当時、薬師寺には|道昭《どうしよう》、|義淵《ぎえん》といった超一流の|碩学《せきがく》がぞろっといた。うらやましいかぎりであるが、行基はこれらの学匠のもとで、『|瑜伽師地論《ゆがしじろん》』や『|成唯識論《じようゆいしきろん》』など、唯識という難解な教理を説く経典をマスターし、|法相《ほつそう》宗の奥義を窮めた。  慶雲四年(七〇七年)、行基は、二十数年にわたって|研鑽《けんさん》を積んできた薬師寺を離れ、老いた母を迎えて|生駒《いこま》山に移り住み、隠遁者のような生活を送った。しかし、その母も数年を経ずにこの世を去り、隠遁生活にも終止符が打たれた。  行基は、諸国遍歴の長い旅に出、民衆の|教化《きようげ》、救済に乗り出した。  よく知られているところであるが、行基は、説法、つまりお喋りだけをしてまわったのではない。もちろん、行基は、「お喋り」だけでも人を魅きつけ、教化する力を十分に持っていたに違いない。それは、先に述べた少年行基の牛馬の逸話(誇張に満ちているが)からも推測することができる。しかし、行基は、もっと直接に人びとを救済する道を選んだ。  行基は、橋を造り、道路を補修し、水田の|灌漑《かんがい》を指導し、大きな溜池を掘り、堤防を築いた。つまり、大規模な土木工事を指導したのである。おそらく行基は、こういう土木技術を、薬師寺で修得したのであろう。  考えてみれば、わが国では、仏教はただ仏教としてのみ歓迎されたのではなかった。仏教は、中国の先進の文化、科学技術とワンセットであった。お坊さんは、そうした文化、科学技術を吸引するバキューム・ポンプのような役割をも果たしたのである。  そういえば、行基の師にあたる道昭も、やはり諸国を巡って土木工事を指揮している。また、平安時代の初期には、弘法大師空海が、同じようなこと——もっと大規模ではあったが——を行なっている。  さて、行基には政治的な権力も、そしてもちろん財力もなかった。にもかかわらず、まったく私的にこうした事業を行なったのである。それを可能にしたのは、ひたすら行基の|徳力《とくりき》であった。そしてまた、そういう行基に具わっていると人びとが信じた|法力《ほうりき》、|験力《げんりき》の賜物でもあった。  行基の験力を伝える話は数多くある。まずは、|放生《ほうしよう》(|不殺生戒《ふせつしようかい》に基づく)の奇蹟|譚《たん》として、次のようなものがある。  昔、行基が諸国を巡って修行して故郷に帰ってみると、村の大人や子供たちが、池のほとりにたむろして、魚を捕ってそれを食べていた。行基がそこを通りかかると、一人の不良少年が、魚を|膾《なます》(生身を細長く切ったもので、刺身の原型)にして行基にすすめた。出家に生臭ものをすすめるとは、とんだ悪ふざけである。意外にも、行基はその膾を口に放りこんだが、あっと思う間もなく、たちまちこれを吐き出した。ところが、吐き出したものを見るに、膾が小魚に変じてぴんぴん跳ねている。不良少年はもとより、これを見ていた人びとは、おおいに驚き、かつ恐れたという。(『日本往生極楽記』二、『三宝絵詞』中)  また、主人公は違うが、やはり行基がからんでいる放生譚が今一つある。  |置染《おきそめ》の|臣鯛女《おみたいめ》という、道心あつい娘がいた。この娘は、野山に出て菜を摘み、一日も欠かさずそれを行基に捧げた。  ある日、山に入って菜を摘んでいると、大きな蛇がこれまた大きな蛙を飲みこんでいるところに出くわした。娘は大蛇に、 「その蛙を放してやって下さい」 と頼んだが、大蛇はこれを無視してなおも蛙を飲みこもうとする。あわてた娘は、不用意にも、このようなことを口走ってしまった。 「私はあなたの妻になりましょう。ですから、どうか蛙を放してやって下さい」  これを聞いた大蛇は、不気味にも頭を高く持ち上げ、娘の顔をじっと見つめてから、ようやく蛙を吐いて放してやった。蛙が助かったのはよかったが、娘はどきりとした。これは、明らかに自分のことばを理解しての所業である。何とかこの場を言い逃れなければならない。そこで娘は、とっさに判断し、大蛇にこう約束した。 「段取りというものがありますから、今すぐどうのというわけにはいきません。今日より七日経ったらおいで下さい」  そして七日後、娘は家の出入り口や窓を閉じ、穴という穴、隙間という隙間をすべてふさぎ、息を殺して中に籠っていた。すると、案にたがわず、大蛇がやってきて(おそらく夜であろう)、中に入れないのを怒って尻尾で家の壁をどすんどすんと打ちつけた。しかし、しっかりと固めた家を押し破ることはかなわず、何とかその日はあきらめて帰っていった。恐ろしくなった娘は、明くる日、さっそく生駒山の行基のもとに走り、事の次第を打ち明けた。  行基は言った。 「残念ながら、これ自体はいかんともし難い。ともかく、ひたすら|謹《つつし》んで戒を受けることじゃ」  そこで娘は|三帰《さんき》五戒(|仏法僧《ぶつぽうそう》の三宝への|帰依《きえ》、|不殺生《ふせつしよう》、|不偸盗《ふちゆうとう》、|不邪婬《ふじやいん》、|不妄語《ふもうご》、|不飲酒《ふおんじゆ》の五戒)を、行基の指導のもとに|受持《じゆじ》して帰途についた。  途中、大きな|蟹《かに》を持っている老人に出会った。今しがた三帰五戒を受持したばかりの娘は、さきの大蛇のことにもめげず、老人に語りかけた。 「いずこのお方でいらっしゃいましょうか。お願いでございますから、その蟹を放してはいただけませんでしょうか」  老人は答えた。 「わしは、|摂津《せつつ》の国は|兎原《うない》郡の者で、|画問《えどい》の|邇麻呂《にまろ》と申す。歳は七十八になるが、子供がおらぬゆえ、食うにも困ることが多くてのう。そこで|難波《なにわ》に出かけたところが、たまたまうまい具合にこの蟹を手に入れることができたのじゃ。しかしのう、約束した人がおるからして、この蟹をおぬしに渡すわけにはいかん」  娘は、やおら自分の着ていた衣を脱いで、蟹と交換しようとしたが、まだ老人は承知しない。娘は、さらに、|裳《も》(スカート)を脱いで差し出した。そこでようやく、老人は承知し、蟹を娘に渡してやった。  娘は、また道を逆戻りし、行基の立会いのもと、この後再び不幸な目に会わないようにと呪文を唱えてから蟹を解き放った。行基は娘の振舞いを見て、 「なかなかできないことじゃ、すばらしいことじゃ」 と、ひとしきり感嘆のことばを惜しまなかった。  さて、その夜、また大蛇がやってきた。大蛇は、今度は|草葺《くさぶ》きの屋根に這い上がり、草を抜いて家の中に入ってきた。娘は、あまりの恐ろしさに身動きもできず、もはやこれまでと、|寝床《ねどこ》の前にうずくまってただ震えるばかりであった。どういうわけか、ばたばたという大きな音がひとしきりしたが、顔を上げて確かめることもできない。  恐怖の一夜が明けた。娘がようやくおそるおそる顔を上げて見ると、大蛇はずたずたに輪切りにされてころがっており、そのかたわらに一匹の大蟹が這っている。娘は、即座にさとった。昨日のあの蟹が恩返しをしてくれたのだ。そして、これもまた、三帰五戒受持の不可思議な力によるものである、と。  さらにまた、娘は、ひょっとしてという思いに駆られ、あの蟹を持っていた老人が果たして実在の人物であるのかどうかを、老人が名乗った土地と姓名をたよりに調べてみたが、その土地の人は皆、そのような老人はいないという。これによって、娘は明らかに知ったのである。あの老人は、行基聖が|変化《へんげ》したものである、と。(『日本霊異記』中の八、『三宝絵詞』中、また、ほとんど同じといってよい話が『日本霊異記』中の一二にも見られる。さらにまた|蟹満多《かにまた》寺ないし|蟹満《かにまん》寺の縁起として、蟹が恩返しに大蛇を退治する類似の話はあちこちにある。例えば、『大日本国法華経験記』下の一二三、『今昔物語』一六の一六など。おそらく、これらはすべて『日本霊異記』の記述に基づくものと思われる。)  行基は、|神通《じんずう》(|力《りき》)の持ち主であると信じられていた。  神通、ないし神通力にはさまざまあるが、なかでも六神通というのが有名である。それは、一つには|神足《じんそく》通で、どこにでもたちどころに行くことができる力、二つには|天眼《てんげん》通で、あらゆるものごとを見通す力、三つには|天耳《てんに》通で、どんな小さな声、どんなに遠くの声でも聞くことができる力、四つには|他心《たしん》通で、他人の心を読み取る力、五つには| 宿命《しゆくみよう》通で、過去世のすべてを知る力、六つには|漏尽《ろじん》通、|煩悩《ぼんのう》が尽きて|解脱《げだつ》したことを確認する力である。  次に行基の神通力の話を二つ掲げるが、初めのほうが天眼通、後のほうが宿命通に関する話である。 [#挿絵(img/fig2.jpg)]  故京|飛鳥《あすか》の|元興《がんごう》寺付近の村で、あるとき盛大に|法会《ほうえ》が催された。人びとは行基|大徳《だいとこ》に来てもらい、七日間の説法をお願いした。うわさに高い行基大徳の説法であるというので、近隣の人びとは、出家、在家を問わず、こぞって集まり、ありがたい説法に耳を傾けた。  この聴衆の中に、髪に獣の油を塗った女が一人いた。(油というが、実は血のことである。昔は、|梵鐘《ぼんしよう》など、分厚い金物のひび割れの応急修理に、獣の血がよく用いられたという。血は、流動性、粘着性、凝固性の点で、なかなか勝れた性質を持っているからである。)大徳はこれをたちどころに見破り、女を指差し、聴衆に向かって叫んだ。 「これは臭くてたまらん。頭に獣の血を塗っているあの女を、すぐにここから追い出し、遠くに引き棄てよ」  仏教が忌み嫌う殺生を毛ほどにも思わず、平然とこのような場に出入りする、無神経の不届き者め、というわけである。女はいたく恥じ、みずからそそくさと退席した。  それにしても、凡夫の肉眼には、この女が髪に塗っていた油は、色|艶《つや》などからしてふつうの植物油にしか見えない。ところが、行基大徳のような聖人の明眼(天眼)には、そのものずばり、獣の血と見えるのである。(『日本霊異記』中の二九、『三宝絵詞』中)  行基大徳は、難波の江を掘り開いて、港を築造した。その技術指導を行なうかたわら、法を説き、人びとを|教化《きようげ》した。出家も在家も、貴人も下層民も、われもわれもとここに集まってきて法を拝聴した。  さて、|河内《かわち》の国は若江郡|川派《かわまた》の里に、一人の女がいた。この女も、行基大徳が難波の江で説法をしているといううわさを耳にし、熱心にも、子供を負ぶってやってきて法会に参加した。ところが、その子供がぎゃあぎゃあ泣きわめくため、母親は法を聞くどころではない。しかも、この子供は、もうすでに十数歳になるというのに、歩くことができない。まるで嬰児のように、ぎゃあぎゃあ泣き騒ぎ、乳を飲み、ものを食べ、一時として静かにしていない。  行基大徳は、何を思ったか、突如びっくりするようなことを言った。 「これ、そこな女人、おぬしが抱いているその子を向こうに持っていって、淵に投げ棄てなされ」  ずいぶん|酷《むご》いことを言ったものである。これはいったいどういうことなのか、菩薩と呼ばれるような人のことばとはとうてい思えない。もちろん、その女は、わが子がいとおしいに決まっているから、棄てにいくどころか、ますますしっかりと抱きしめて、最後まで説法の場を離れなかった。  明くる日、またこの女は子供を抱いて法会にやってきた。ところが、この子供は、昨日よりももっと激しく泣きわめいた。あまりの騒がしさに、ほかの聴衆も、説法のことばが聞き取れなくなってしまった。  行基大徳は、厳しい声できっぱりと言った。 「その子を淵に投げよ」  さすがに女も、わが子のありさまと行基大徳の決然とした口調を思い合わせて、これにはやはり何か測りがたいわけがあるのかもしれないと感じ、もはやこれまでと観念して、えいやっとばかり、わが子を深い淵に投げ棄てた。  すると、何ということであろう、いったん淵の底に消えたわが子が、再び水面に浮かび上がってきて、地だんだを踏み、手をばたばたさせ、眼をかっと見開き、猛烈に憤りながら奇怪なことを口走った。 「ちくしょう、残念無念だ、あと三年、がっついて食いつぶしてやりたかったのに」  女は、この呆れたありさまにたじたじとなり、何が何だか分からないまま、法会の席に戻った。 「どうじゃ、子供を打ち棄ててきたか」 という大徳の問いに、女は、かくかくしかじかと、事細かについ今しがたの出来事を述べた。すると大徳はこう女に語った。 「おまえは、前世において、あの者から物を借りながら、それをついに返済しないままにしてしまった。そこで、怨みを残して死んだあの者は、今生においておまえの子として生まれ、おまえの身上を食いつぶすという形で、負債を取り立てようとしたのじゃ。つまり、あの子は、はるか昔の貸し主というわけじゃ」(『日本霊異記』中の三〇)  さて、行基が行くところ、出家も俗人も、老いも若きも男も女も、仕事を放り投げて集まってきた。町に人なく、田に耕す人なし、『君の名は』の放送時間になると女風呂がガラ空きになったというような人気であった。やがて、行基の行くところならどこにでもついていくという、押しかけ弟子といったていの熱烈な信者が次々と現われ、多いときには千人を数えるようになった。この千人に加え、その土地その土地の人びとが総出で労役を買って出たので、いかなる大工事も不日にして成ったという。  しかし、当時の国家は、このような動きを放置するほど|鷹揚《おうよう》ではなかった。役小角の場合もそうであったが、行基の場合も、多数の弟子を従え、各地の人心を|収攬《しゆうらん》したことが危険視され、ついに、養老元年(七一七年)、行基はいっさいのこうした活動を禁止された。しかし、やがて誤解も解け、また、東大寺大仏建立のために、行基の力がおおいに見直され、今度は逆に、国家から最高級の待遇を受けることになった。  行基は、畿内に数多くの「道場」(「寺院」よりも小規模なもので、基本的に私設)を建てた。さらに、天平十七年(七四五年)には、わが国で最初の大僧正に任ぜられ、その五年後には、天皇(聖武天皇)と皇后の戒師となり、両人に菩薩戒を授け、みずからは「大菩薩」の号をおくられた。  ここらあたりの話になると、行基は古代律令制国家の機構の中に組みこまれていて、せいぜい、まあ要するに行基は偉かったということですな、というくらいで、痛快な面白さはなくなってしまう。ただ、流浪の僧の行基がここまで「出世」すると、|嫉《ねた》みを抱く者も現われる道理で、固有名詞をもってそうした話も広く伝えられているので、簡単に紹介しておくことにする。  |智光《ちこう》という人がいた。河内の国の人で、俗姓は|鋤田《すきた》の|連《むらじ》、後には|上《かみ》の|村主《すぐり》と言った。智光は、出家して河内の国は|安宿《あすかべ》の郡の鋤田寺に住していたが、天平年間、元興寺の|智蔵《ちぞう》のもとで三論宗を参究した。|智慧《ちえ》第一といわれる秀才で、『|盂蘭盆会経《うらぼんえぎよう》』『|大般若経《だいはんにやぎよう》』『|般若心経《はんにやしんぎよう》』などの多くの経典の注釈書を著わした。  ときに、日本で最初の大僧正に行基が任ぜられた。ところが智光はこれがおおいに気に入らない。実践ばかりで学問的業績を挙げていない行基が、なぜこれほど高く評価されなければならないのか、智光は自尊心をいたく傷つけられた。 「我輩は智慧者である。行基はそこらにごろごろいるただの坊主ではないか。いったい天皇は、どうして我輩の智慧を取り挙げずに、ただの坊主を絶賛してこれを用いたのであろうか」  嫉みに血が頭に上った智光は、天皇、朝廷を恨み、時世を憤り、鋤田の山寺に隠遁してしまった。ところが、それからすぐに智光は、猛烈な下痢を伴う病にかかり、一月ほどしてついに臨終を迎えた。いまわの際に、智光は弟子にこう遺言した。 「わしが死んでも、わが|遺骸《なきがら》を火葬してはならぬ。九日のあいだ、そのままにしておけ。もしも|学生《がくしよう》がわしを訪ねてくることがあれば、あちこちと用事があって今しばらくは帰ってこないと言い|繕《つくろ》って、食事を出して引き留めておけ。よいな、わしが死んだということは、誰にも知らせてはならぬぞ」  こうして、智光は死んだが、弟子は師の遺言通り、師の部屋を固く閉ざし、誰にもさとられないように用心しながら九日間を過ごした。そして十日目、智光は息を吹き返した。驚き喜ぶ弟子に、智光は奇怪な話を語った。  その話によると、智光が死ぬとすぐ、|閻魔《えんま》大王の使者がやってきて智光を連行した。途中、壮大な金の|楼閣《たかどの》があり、|燦然《さんぜん》と光輝いていた。智光が聞くと、これは、行基菩薩が生まれることになっている場所であるという。さらに進んで閻魔大王のもとに着くと、大王はこう一喝した。 「おまえは、|閻浮提《えんぶだい》(人間が住んでいる世界)は日本国において、行基菩薩を嫉み、|誹謗《ひぼう》した。おまえをここに召したのは、その罪を滅ぼすためである」  そこで智光は、灼熱の|銅《あかがね》の柱を抱かされ、肉も骨も溶ける刑罰などを受けた。これによって罪が償われたとき、智光は釈放され、この世に再び生き返った、という次第である。  前非を深く悔いた智光は、さっそく、難波の江で土木工事を指揮していた行基を尋ねた。行基は、神通(他心通)で一早く智光の心を知り、にっこりと|微笑《ほほえ》んで語りかけた。 「今までなかなかお会いすることができませなんだな」  智光は大地にひれ伏して行基を拝み、これまでのいっさいの罪を包み隠さず告白した。以後、智光は行基を深く敬うようになり、行基の徳に感化されて、熱心に法を説き、教えを広め、迷える人びとを導いた。(『日本霊異記』中の七、『日本往生極楽記』二、『三宝絵詞』中、『大日本国法華経験記』上の二。ちなみに、智光は、阿弥陀仏への信心あつかった人で、通称「智光|曼荼羅《まんだら》」という浄土曼荼羅を作らせ、めでたく極楽往生を遂げたと伝えられる。)  さて、行基の働きもあって、東大寺の建造も終了し、いよいよ、この寺の供養が日程に上ってきた。聖武天皇は、供養の|大会《だいえ》の|講師《こうじ》に行基を指名した。しかし、行基は、その任に自分は堪えるものではない、異国より近々聖者が到来するはずであるから、その聖者を講師に任じていただきたいと奏上した。  いよいよ大会の日が目前に迫った。行基は、神通によりその異国の聖者の行程を知り、今日、聖者がお着きになるから、お出迎えいたさねばならないと言った。そこで天皇の勅を受けて、行基は百人の僧と多くの役人、楽人を引き連れて、難波の港に出向いた。行基は、百人の僧の末席に加わり、|閼伽《あか》(供物の水、ないしその水を入れた容器)一式に、香を|焼《た》き、花を盛って海に浮かべた。すると不思議、それは勝手にどんどんと西を目指して進んでいくではないか。  ややあって、はるか西の海に、一艘の小舟がこちらに向かってくるのが見えた。こちらからも舟を出して近づいていってみると、その小舟の前には、先ほどの|香花《こうげ》を添えた閼伽一式が、少しも乱れることなく浮かんでいる。この閼伽一式が、小舟の水先案内をつとめたのである。  いよいよ小舟が岸に着いた。一人のインド人の僧が浜に上がってきた。行基は歩み寄り、この僧の手をとり、たがいに微笑みを交わした。ここで、行基は一首の和歌を唱えた。 [#ここから2字下げ] |霊山《りやうぜん》の|釈迦《しやか》のみまへに契りてし|真如《しんによ》くちせずあひみつるかも (|霊鷲山《りようじゆせん》で釈尊は法華経を説かれたが、その霊鷲山の釈尊の前で約束した変わらぬ心が朽ちることなく、ここにお目にかかることができましたなあ) [#ここで字下げ終わり]  これに答えて、異国の聖者も一首唱えた。 [#ここから2字下げ] |迦毘羅衛《かびらえ》にともに契りしかひありて|文殊《もんじゆ》の|御貌《みかほ》あひみつるかな (釈尊が王子時代を過ごされたカピラ城でたがいに約束を交わしたかいがあって、今ここでまた、文殊菩薩のお顔を見ることができました) [#ここで字下げ終わり]  行基は、僧たちに向かって、このお方は、南インドの|婆羅門《ばらもん》で、|菩提《ぼだい》(|菩提遷那《ぼだいせんな》、ボーディセーナ)という名でおわす、と告げた。ここで人びとは、行基が文殊菩薩の化身であることを知った。天平八年(七三六年)のことであった。(『日本往生極楽記』二、『三宝絵詞』中)  このインド僧は僧正に任ぜられ、天平勝宝四年(七五二年)の大仏|開眼《かいげん》供養の導師となった。この僧正を、人びとは婆羅門僧正と呼び慣わした。また、『沙石集』では、|普賢《ふげん》菩薩の化身であるとされている。先の歌も、文殊と普賢のやりとりであると考えると何か納得がいく。(釈迦三尊像の多くは、文殊、普賢両菩薩を|脇侍《わきじ》としている。)  一代の傑僧行基は、大仏開眼供養の三年前、天平勝宝元年(七四九年)に入滅した。八十歳、釈尊の享年と同じであった。(『三宝絵詞』中では、八十七歳とある。) [#改ページ]   |陽《よう》 |勝《しよう》  わが国には、仙人と呼ばれる人の話が、実在、架空を取り混ぜてかなりの数が伝えられている。時代からすれば、平安時代中、後期までに集中しているようであるが、有名なところでは、女のふくらはぎを見て神通力を失い、空から墜落したという|久米《くめ》の仙人、ここに取り挙げる陽勝、|日蔵《にちぞう》などがいる。また、『本朝神仙伝』(鎌倉時代初期、|大江匡房《おおえのまさふさ》の撰と伝えられる)によれば、おなじみの|倭武命《やまとたけるのみこと》、聖徳太子、|役小角《えんのおづぬ》、弘法大師空海、はては亀を助けたおかげで竜宮城で夢のような日々を送った浦島太郎までが、仙人の仲間に組みこまれている。  仙人とは、仙道を修した人のことである。仙道というのは、もちろん、中国の道教が理想とした道である。わが国が中国から受け取った宗教思想の中心となるものは、いうまでもなく仏教、そして後には儒教であるが、道教の影響もなかなか等閑に付すことができない。わが国に道教が伝わったのは遅くとも五世紀末というから、かなり早い。皇族、貴族の間では、吉野が特別の意味をもち、天皇の吉野|御幸《ごこう》(みゆき)などがしばしばとり行なわれた。これは、わが国に古くからあった山岳信仰が、道教の|蓬莱《ほうらい》の神仙境へのあこがれと重ね合わされ、さらに、吉野が朝廷のある場所の南——|陰陽《おんよう》説では南は陰がまったく混じらない純粋の陽である——に位置していたことによる。朝廷に不安材料が生じたときなどに、天皇は吉野に入って、かげりのさした(政治的)生命力の回復を計ったのである。  方位と日時に関する呪術、|庚申《こうしん》信仰、隠れ里(桃源境)信仰、仏教の|補陀落《ふだらく》(観音菩薩がいる所)信仰と習合した蓬莱信仰など、道教は、わが国の民間信仰に深く浸透している。また、奈良時代、平安時代の文人たちは、道教の神仙的雰囲気を愛好し、奈良時代に編纂されたわが国最初の漢詩集である『|懐風藻《かいふうそう》』から、先に触れた『本朝神仙伝』に至るまで、神仙趣味にあふれた数多くの文芸作品を生み出した。  ただ、面白いことに、本場中国の道教では、本物の仙人は、|羽化登仙《うかとうせん》、不老不死の霊薬を求め、それを服するのがふつうであるのに、わが国の仙人の話には、そういう霊薬はほとんど出てこない。この霊薬というのは、水銀とか、さまざまな薬草から抽出した幻覚発生剤、つまり今日でいうドラッグ(なかなか訳しづらいことばであるが、警察の取締りの対象になっているものは「麻薬」、俗に「|薬《やく》」と呼ばれる)のことである。  これは本当に不思議なのであるが、世界広しといえども、ドラッグを、瞑想など宗教的異次元の世界への跳躍の補助手段としてまったく使用しなかったのは日本ぐらいのものではないかと思われる。幻覚を発生させる植物の種類が乏しかったといえばその通りかもしれないが、わが国にも、|紅天狗茸《べにてんぐだけ》という、ヨーロッパからアジア大陸の寒冷地にかけて広く用いられてきた効果抜群のドラッグがある。にもかかわらず、日本人が長い間ドラッグに関心を向けなかった理由は何か、これはたいへん興味をそそる問題である。  さて、陽勝は、伝説の霞に隔てられてあまりはっきりしたことは分らないが、いちおう貞観十年(八六八年)ないし十一年に生まれたことになっている。能登の国の人で、俗姓を|紀《き》氏といった。十一歳のときに出家して比叡山に登り、|西塔《さいとう》にある|勝蓮華院《しようれんげいん》の|空日律師《くうにちりつし》(伝不詳)の弟子になり、後に同じく西塔にある|宝幡院《ほうばんいん》に住した。  陽勝は秀逸聡明で、経典や教義の講義を一度聞けば、それですべてを理解し、再び同じことを聞き返すことがなかった。法華経を|所依《しよえ》の経典とする天台宗比叡山では当然に要請されることとはいえ、陽勝はいともたやすくあの厖大な法華経を暗唱できるようになり、天台宗の瞑想法である|止観《しかん》(禅宗の坐禅によく似ている)に習熟した。  陽勝はまた、生来の素質と修練とがあいまって、心の働きに起伏がなく、なまじ秀才であるがために周囲に巻き起こる|毀誉褒貶《きよほうへん》の波風にあおられず、喜怒哀楽を面に表わすことがなかった。|勇猛《ゆうみよう》に|精進《しようじん》し(ただひたすら修行に励み)、睡眠もまったくとらず、また、横になって休息することすらなかった。(『大日本国法華経験記』中の四四、『本朝神仙伝』一一)  話は横にそれるが、睡眠をまったくとらなかったというのは、十中八九誇張であろう。しかし、長い間まったく睡眠をとらないでいることは、絶対に不可能というわけでもない。脳の生理学によれば、人が眠たくなるのは、脳の中で、睡眠を促す物質が生産されるからであるという。この物質は、通常の人間の場合には、昼間は少なく、夜になると増大するが、不安、興奮が高まるとその生産が抑制される。人によっては、こういう精神的ストレスのために不眠症になることがあるという。  ところが、非常に稀ではあるが、何らかの原因で、この物質がほとんど生産されなくなってしまう人がいる。もちろん不眠症に陥るわけであるが、単なる(といっては不眠症に悩む人に申し訳ないが)神経性の不眠症ではなく、生理的欠損からくる不眠症であって、生命にとってきわめて危険なものである。ふつうの不眠症は睡眠薬で一時しのぎができるが、生理的な不眠症ではそうはいかないからである。せいぜい疲労がたまらないように安静を保つ以外にこれといって打つ手がなく、たいへんやっかいなものであるという。  しかし、このような病気ではなく、睡眠をとらなくてもよいやり方というものがどうもあるらしいのである。私は試みたことがないのでどういう状態になるのか分らないが、インドのヨーガ、それも生理的操作を重視するハタ・ヨーガでは、睡眠を必要としなくてすむようにする修行法が伝えられている。この修行法はそうとうに高度のもので、ヨーガのヴェテランにならないと実習してはいけないとされている。未熟者が不用意に手を出すと、意識が混乱し、人格が崩壊し、そのままお戻りにならなくなる、つまり発狂してしまう恐れがあるのだそうである。ただ、一日に三十分ほどの実習で眠らなくてすむというのであるから、はなはだ魅力的である。  また、坐禅などの瞑想に習熟した人は、脳波のパターン、脈拍数、呼吸数などが、睡眠とほぼ等しい状態、ないしそれ以上に安静な状態に入ることが知られている。素人考えかもしれないが、そうすると、瞑想の達人は、瞑想している間、生理的にはぐっすりと眠っているということになるから、その分、夜の睡眠が少なくてすむ道理である。するとまた、生来の素質からして瞑想に向いた人ならば、そしてその人が瞑想を熱心に修したならば、毎日ある程度の時間をかけて瞑想を行なえば、睡眠はまったくいらないということも、考えられないことではない。もしかすると(十中一二)、陽勝は、止観を好んだおかげで、睡眠をまったくとらないでもすむようになったのかもしれない。  さて、話を元に戻すと、陽勝は、慈悲の心が深く、生きとし生けるものを憐れみいつくしんでやまなかった。裸でうろついている人を見ては、みずからの衣を脱いでこれに与え、飢えで体の弱っている人を見ては、たいしてないみずからの食い|扶持《ぶち》を惜しげもなく施した。人に対してばかりでなく、|虱《しらみ》や蚊や|虻《あぶ》がたかっても、決して追い払ったりはせず、満腹するまで体を食らわせた。そして、仏法を広めて人びとを救済するために、書写僧にまかせきりにせず、手ずから法華経を書写し、いつもそれを|読誦《どくじゆ》した。(『大日本国法華経験記』中の四四、『本朝神仙伝』一一)  何歳のことかは分らないが、陽勝は金峰山に登り、いにしえの仙人の草庵を訪れ、仙人になる決意を固めた。そして、南京(奈良)の|牟田《むた》寺に籠り住んで、仙人になる修行を行なった。  修験道でもしばしば行なうところであるが、仙人への道は、五穀(米、麦、|粟《あわ》、|黍《きび》、豆)を断つことから始まる。五穀を断って菜っ葉の類だけ食するようにし、やがて菜っ葉の類も断って木の実、草の実だけを食べるというふうに進む。陽勝はこの道をたどり、ついに一日に粟一粒を食するのみで、その他のいっさいの飲食を停止するに至った。そして、僧衣の代わりに、藤や|葛《かずら》の|蔓《つる》の繊維で編んだ粗末な衣を身につけた。こうして、衣食への執着を完全に断ち切り、改めておおいなる道心を起こし、|無上正等覚《むじようしようとうかく》(さとり)を目指した。後は住を捨て去るのみである。  延喜元年(九〇一年)の秋、陽勝は突如いずこにか去り、雲を霞と行方をくらました。三十三歳のときのことであった。着ていた|袈裟《けさ》を松の枝に懸け、かねて親交厚かったとみえる吉野の|堂原《どうはら》寺の|延命禅師《えんめいぜんじ》(どういう人かは伝不詳)に譲り与えた。禅師はその袈裟を手にして、悲しみに泣きくれた。禅師は陽勝を求めて山や谷を、駆けずり、這いずりまわったが、ついに何の手がかりも得られなかった。(『大日本国法華経験記』中の四四、『本朝神仙伝』一一)  ただ、その後陽勝を見たという人がいなかったわけではない。例えば、吉野山で激しい修行に精進していた|恩真《おんしん》(伝不詳)という僧などの証言によれば、陽勝はすでに仙人になっていて、身体に血肉なく(つまり骨と皮だけになってということか)、妙な骨組をもち、尋常でない毛に覆われていた、そして、身体から両の翼が生え、まるで|麒麟《きりん》や|鳳凰《ほうおう》のように大空を駆けていた。恩真たちは、これを吉野の|古刹《こせつ》、龍門寺の北にある峰でたまたま目撃したという。  また、熊野の松本の峰で、陽勝は、かつて比叡山でともに修行したことのある僧と、仏法上の疑義について問答を交わしたという。(『大日本国法華経験記』中の四四)  さらに、こういう話もある。  |大峰《おおみね》山の連なりのなかに|国見《くにみ》山というのがあるが、この山の中腹に|笙《しよう》の|石室《いわむろ》(|城石室《じようのいわむろ》ともいう)と呼ばれる石室がある。この石室は有名で、例えば、後で取り挙げる日蔵上人もここに籠って修行をしている。古くから、修験道的仏教の一つの中心地だったというわけである。  さてあるとき、この石室で|安居《あんご》(雨期の間外出せず、一カ所に籠って修行すること)を行なう一人の僧(|元興《がんごう》寺の僧であるとも伝えられている)がいた。この僧は、数日にわたって何も食べずに法華経を読誦していた。するとそこに、青色の金剛童子を思わせる、青い衣をまとった童子がやってきて、白米の飯を僧に授けた。食べてみるとたいへん美味である。僧は童子に、白米の飯を持ってここにやってきたわけを訊いた。童子は答えた。 「私は、比叡山は西塔にある千光院の|延済《えんざい》和尚に仕える童子です。長年の修行のおかげで仙人になることができまして、最近は陽勝仙人を|大師《だいし》といたしております。この食物は、わが陽勝仙人の志でございます」  こう語り終えると、童子はまた、いず方へとなく去っていった。(『大日本国法華経験記』中の四四、『本朝神仙伝』一一)  また、今の話とかなり類似した、こういう話も伝わっている。  延喜十八年(九一八年)、あるいは延喜二十三年(九二三年)ということになるのであろうか、いずれにしても陽勝が五十数歳の頃のことである。  東大寺の僧が、一人で大峰山系の神仙の峰、ないし金峰山に詣でたが、何しろ深山のこと、道に迷ってさまよううちに米も水も尽き、飢えと渇きのためにほとんど命を失いかけたとき、遠ざかる意識のなかで、ふと法華経を読誦する声を聞いた。はっと目を覚まし、やっとのことで体を起こして声がする方を探し求めると、そこに陽勝がいた。  陽勝は、僧が持っている空の鉢と|瓶《かめ》に向かって、何やら呪文を唱えた。するとたちまち、鉢にはすばらしい食べものが満ち、瓶には清らかな水があふれた。陽勝はこう語った。 「わしは、この山に入って五十余年、生年八十余歳を数える。(どうも計算が三十年ほど合わないが、どうしたことであろうか。)その間に仙道を修得して、自在に飛行することができるようになった。天に昇り地に潜るのに、何の妨げもない。また、法華経の力によって、好きなとき、思うところで仏を見、法を聞くことができるようになった。おかげで、世間の生きとし生けるものを|教化《きようげ》し、救済することも、意のままである」 と。(『大日本国法華経験記』中の四四、『本朝神仙伝』一一)  なかなかずいぶんの自信である。やはり、仙人というのは、俗気を離れ、執着を捨てているとはいえ、|空《くう》の空のまた空、見かけは凡人の境地とはまるでずれたところにいるものなのかもしれない。  さて、説話によると、東大寺の僧の危急を救ったとき、陽勝の親(父か母かは不明)はまだ存命であるということになっている。『本朝神仙伝』では、陽勝はこの僧に自分の近況報告の伝言を依頼したことなど、多少独立の筋立てがみられるが、話の重複を避けるため、ここではひとまず『大日本国法華経験記』に沿って、陽勝とその親にまつわる逸話を追うことにしたい。  |故郷《ふるさと》の陽勝仙人の親は、そのころ病の床に伏していた。薬石も効なく、もはや万死に一生の望みなく、たいへん危険なところにさしかかったとき、陽勝を懐かしみ、悲痛の気持でこうつぶやいた。 「子供は大勢いるけれども、陽勝こそは、わが最愛の子じゃ。陽勝よ、もしもわが心がおまえに通じたならば、どうかお願いじゃ、すぐにここにやってきて顔を見せてほしい」  陽勝は、神通でこのことを知ると、ただちに飛行し、親の家の上空で法華経を読誦し始めた。何事かと思った人びとが家の外に駆け出して上を見たが、声だけ聞こえて姿はまったく見えない。  陽勝は、病床の親にこう語りかけた。 「私は、|火宅《かたく》(法華経『|譬喩品《ひゆぼん》』に出てくる、三界、つまり苦しみに満ちたこの|輪廻《りんね》の世界の|譬《たと》え)を去り、|俗塵《ぞくじん》を離れ、人里には姿を現わさないとはいえ、あえてここにやってきて、経を読誦し、ともに話を交わしたく存じます。これもひとえに孝養のためというわけです」  そしてまた、こう語った。 「毎月十八日には、香を|焼《た》き、花を散らして私をお待ち下さい。私は、香の煙をたどってここにやってきて、経を読誦し、法を説き、生まれてより受けた恩徳に報いたいと思います」 と。(『大日本国法華経験記』中の四四、類話は『本朝神仙伝』一一) 「香の煙をたどって」という一句があるが、考えてみれば、陽勝は仙人であり、超能力の持ち主であるから、焼香の煙がなくとも、しかるべき日にしかるべき方法で簡単にやってこられそうなものである。しかし、これには理由があり、それは、以下の話のなかで明らかにされる。  昔、比叡山西塔の千手院に、|静観《じようかん》(|増命《ぞうみよう》)僧正という|座主《ざす》がいて、|尊勝陀羅尼《そんしようだらに》という、除災の効能抜群のありがたい呪文を、長年にわたり、夜もすがら唱えることを常としていた。  ある夜、陽勝仙人は、いつものように空を飛行していたが、たまたま僧正の坊の上を通り過ぎようとしたとき、この陀羅尼を唱える声が耳に入った。陽勝はそのあまりの尊さに心ひかれ、坊の前にある杉の木に降りて耳を澄ませた。ところが、聞けば聞くほどありがたい陀羅尼なので、もっと近くでと思い、とうとう坊の廊下の欄干の上に飛び移った。僧正はこれに気がつき、何者であろうと怪しんで問うたところ、陽勝は戸を隔てて、蚊の鳴くような小さな声でこう答えた。(他の人に気づかれないためである。) 「陽勝仙人でござる。空を飛んでおったのじゃが、ちょうどこの上にさしかかったところ、尊勝陀羅尼を唱えられる声を耳にし申して、ここに参った次第でござる」  そこで、僧正が戸をあけて、 「どうぞお入りなされ」 と声をかけたとたん、陽勝はさっと飛びこんできて僧正の前に坐った。それからしばらくの間、陽勝は、|来《こ》し|方《かた》のさまざまな出来事を僧正に語った。そして、今日のところはこれまでと言って立ち上がろうとしたが、人の気配に押されて立ち上がることができない。 「すみませぬが、そこの香炉の煙をこちらの方に近づけて下され」  そこで僧正は、香炉を陽勝の近くまで寄せてやった。すると、陽勝はその煙に乗って空へ昇っていった。  陽勝は、かつてこの僧正のもとで修行したことがあった。ところが陽勝は、突如、決然として行方をくらましてしまった。僧正は、どうしたわけかとずっと心配していたところ、このように陽勝が顔を見せてくれたものであるから、その感激もひとしおで、それ以来、この夜のことを思い出しては感涙にむせんだという。(『今昔物語』一三の三、『宇治拾遺物語』八の七)  また、陽勝の比叡山への飛行については、次のような話も伝えられている。  比叡山の西塔では、毎年八月に一週間ほど、昼夜を分かたず連続して念仏を唱える不断念仏という行事が取り行なわれる。陽勝は、この時期に限って比叡山を訪れ、大師(|慈覚《じかく》大師)の|遺跡《ゆいしやく》を拝んだ。なぜこの期間に限るのかを尋ねたところ、陽勝はこう答えたという。  この山には、あふれんばかりの|信施《しんせ》(信者からの|布施《ふせ》)のために、俗悪の火炎がいつも空に満ちて、わが飛行の道をふさいでいる。また、この山の僧どもの身辺からは|腥《なまぐさ》い臭気が漂い、とても耐えられたものではない。ただ、この不断念仏が行なわれるときだけは、この火炎は消えてなくなり、念仏の|功徳《くどく》と|清浄《しようじよう》な焼香の煙のゆえに臭気も消える。だからこの山に降り立つことができるのである、と。(『大日本国法華経験記』中の四四、『本朝神仙伝』一一)  つまり、仙人になって完全に俗世間から離れた者は、俗世間の汚れには耐えられない。であるから、不断念仏であるとか、このうえなくありがたい尊勝陀羅尼であるとか、焼香の煙であるとかといった、周囲の邪気を払う清浄なものに頼らなければ、俗人のいるところには姿を現わすことができないのである。  考えようによっては、仙人は|黄泉《よみ》の国に住まいなす死者である。|冥府《めいふ》の|食《じき》をいったん口にした者は、|現世《うつしよ》の食は腥くてとても近づけないというが、何となくこれに似ていないでもない。仙人が籠る深山は、わが国では死者の集まる所、つまり黄泉の国であると信じられていた。死者と仙人が重ね合わされる理由は十分にあろう。  泥中に生える蓮華のように、俗塵に交わっても汚れることがないという、菩薩のあるべき姿は、仙人には、しょせん縁のないものであるのかもしれない。だから、大乗の菩薩道を第一に考える人は、この陽勝のような仙人はあまり好きになれないかもしれない。しかし、朱に交われば赤くなるということわざもある。泥中の蓮華などと気取って、結局は泥の虜になってしまった人の何とおびただしいことであろうか。 [#改ページ]   仙人群像  深山で修行し、空を飛ぶなどの超能力を身につけた人のことを、わが国では一般に「仙人」と呼び慣わしている。|町中《まちなか》の仙人もいないではないが、仙人はたいがい深山にいることになっている。山岳信仰と仏教の習合の産物である修験道の行者のうち、|神通《じんずう》や呪力を得たとされる達人は、したがって、すべて「仙人」と呼ばれてしかるべきである。そうすると、わが国には「仙人」は数え切れないほどいることになる。(なお、「仙」と書いて「ひじり」と読ませる例がかなりある。げんに、「聖」と呼ばれた人の中には、|験力《げんりき》を発揮したとされる人が多くいる。)  ここでは、そういう「仙人」たちの系譜をおおざっぱにでも概観するという余裕はないし、そもそも筆者はそこまでの学識をもちあわせていない。修験道については、古典的なところでは和歌森太郎著『修験道史研究』(平凡社、東洋文庫)、ごく最近では宮家準著『修験道思想の研究』(春秋社)などがあるから、そういうものを参照されたい。  もっとも、山岳の修行僧を、ことさらに仙人とか神仙とか呼んでいたのは、主として平安時代の人びとである。この時代、人びと(といっても、貴族、豪族が中心であったが)は、迫りくる末法の世への恐れから、山岳をしばしば|弥勒《みろく》の浄土であるとか、|阿弥陀《あみだ》の極楽浄土であるとか、観音菩薩の|補陀落《ふだらく》であると考えた。つまり、仏や菩薩の浄土はこの世にあるというわけである。そして、この現世の浄土の印画紙には、道教の|蓬莱《ほうらい》の神仙境、わが国古来の、死者の集まる他界としての山岳が、二重三重に、しかもかなり鮮明に焼きこまれているのである。  ここでは、道教趣味をもった平安、鎌倉初期の文人たちが仙人と呼んだ人びとに焦点を合わせることにする。すでに、|役小角《えんのおづぬ》、|陽勝《ようしよう》という、ウルトラ級の仙人は取り挙げた。この二人に較べると見劣りがするのはいたしかたないが、残りの仙人の中から、まあまあ仙人らしくて、当時の人びとに人気のあった人を何名か選んで、以下に紹介することにしたい。    |泰《たい》 |澄《ちよう》  泰澄は、越後の国|古志《こし》の郡の人で、天武天皇の十一年(六八二年)に生まれたという。この人には、越の|大徳《だいとこ》、越の|小大徳《こだいとこ》(古志の小大徳)、|神融《じんゆう》、|泰証《たいしよう》といった別名があるが、なかでも、越の小大徳、神融というのがポピュラーのようである。ただし、神融というのは別人ではないかとの疑いももたれている。また、泰澄は加賀の国の人であるという伝もある。もっとも、この方は、泰澄が白山(登山口は加賀、越後、美濃に分かれる)と深い関連があるところから、加賀側の白山信仰の権威づけのためにそう言われるようになったということらしい。ともあれ、仙人のことであるから、史実は容易にはわからない。  泰澄は、厳しい修行に耐えて、数々の験力を発揮することができるようになった。万里を隔てたところにも、わずか一日で到達し、翼がないにもかかわらず、空を自在に飛行したという。  養老元年(七一七年)、泰澄は、神女のお告げによって白山に登り、その頂上で|禅定《ぜんじよう》に入った。すると、目の前の池の中から、九つの頭をもつ|九頭《くず》の龍王が姿を現わした。泰澄が、これは方便の|示現《じげん》(仮の姿)であり、|本地《ほんじ》のまことの姿ではなかろうと問い詰めると、慈悲に満ちあふれた十一面観自在尊(十一面観音)が忽然として現われたという。泰澄は、ここに、白山の霊地たることを明らかにして、そのことを|詩賦《しふ》に|認《したた》めた。(現在は伝わっていない。)  また、吉野山に赴いて、|一言主神《ひとことぬしのかみ》の縛を解こうとした。(一言主神が、役小角に呪いをかけられ、|葛《かずら》の|蔓《つる》で縛られ、谷底に放り投げられたことについては、「役小角」の項を見られたい。)試みに、心をこめて呪文を唱えると、縛が解けた。ところがそのとたん、いずくとも知れぬところから激しい叱責の声がして、縛はまたもと通りになってしまった。もちろん、役小角の仕業に間違いない。  さらに、泰澄は、諸国の神社を訪れ、祭神にその本地を問うてまわった。本地というのは、本地|垂迹《すいじやく》説でいう本地のことである。この説によれば、わが国の神々は、実はインドの仏や菩薩(本地)が、わが国の人びとを救済するために姿を変えて顕現(垂迹)したものであるという。  伏見の稲荷大明神の社で、数日にわたって経文を念誦したところ、夢に一人の女が現われ、社の奥の|帳《とばり》から出てきてこう告げた。 [#ここから2字下げ] 本体観世音(わが本地は観世音菩薩であり) 常在補陀落(常に補陀落に住まいなしているのであるが) 為度衆生故(生きとし生けるものを救うために) 示現大明神(大明神の姿をここに現わしているのである) [#ここで字下げ終わり]  また、九州の阿蘇の社に詣でたところ、九頭の龍王が池から出てきた。賤しい畜生の身でありながら、どうしてこの霊地を領しているのか、真実を明らかにせよと、泰澄は詰問した。夕刻その池から、今度は金色の三尺の千手観音が、美しい夕日を浴びて現われた。つまり、阿蘇の社の祭神の本地は千手観音だったのである。(『本朝神仙伝』四)  こういう話から、どうやら泰澄は、霊山開拓と神仏習合に大きな役割を果たした人物らしいということが分かる。また、泰澄には、法力によって|地主《じしゆ》の神と雷を調伏し、越後の|国上《くにがみ》山における宝塔建立を成功させたという話(『大日本国法華経験記』下の八一)も伝わっている。地主の神とのからみというのは、この泰澄あたりが古い例になるようである。そしてまた、地主の神云々ということ自体、神仏習合をよく象徴しているといえる。  泰澄は、数百歳を経ても死なず、その終わりを知っている人は誰もいないという。    |行《ぎよう》 |叡《えい》  行叡は、出生については何も知られていないが、出家ではなく、したがって行叡|居士《こじ》と呼ばれている。伝えられるところによれば、行叡は、京都東山の|清水《きよみず》寺の土地のもともとの持ち主、つまり、|地主《じしゆ》であった。白髪がぼさぼさに生え、歳の頃七十というあたりに見えたが、じつは数百歳を数えたという。出家の僧ではないにもかかわらず、常に修行に励み、生涯妻をめとらず、米(あるいは五穀)を断っていた。今、清水寺にある滝は、この行叡居士が呪力で湧き出させたもので、もとは黄金色の水が落ちていたという。  あるとき、大和の国小島山寺の|報恩大師《ほうおんだいし》(後出。あるいはその弟子の|賢心《けんしん》)が、この土地を訪れた。賢心が主役になる話では、北に赴けという夢のお告げで旅立ち、淀川に出ると、黄金色の水が一筋流れている。ほかの人の目にはそれが見えなかったので、これは夢のお告げに関わりがあるに違いないと思った賢心は、その黄金色の水をたどり、そしてこの地にやってきたということになっている。  報恩(あるいは賢心)を見て、行叡は、持仏と自分の草庵を譲ると言って、このように語った。 「わしは、おぬしが来るのを待っておったのじゃ。どうかこの土地の持ち主になって、仏法を広めて下され。わしは、まだ仏法を知らぬ人びとを導くために、これから|東《あずま》の国に向かうところじゃ」  こう語って東の方に向かっていったのであるが、|音羽《おとわ》山に至るや、ふっと姿を消してしまった。あとには杖とわらじが残っているだけであった。(『本朝神仙伝』六)  この後何年かたって、|蝦夷《えぞ》征伐の|征夷《せいい》大将軍として有名な|坂上田村麻呂《さかのうえのたむらまろ》がこの土地に縁を持つようになり、今日の清水寺が開かれた。行叡は地主の神、地主権現として、清水寺の境内の一隅に祭られた。その|祠《ほこら》のあるあたりに咲く桜はたいへん美しく、「地主の桜」として長く人びとに親しまれてきた。    |教《きよう》 |待《だい》  行叡は清水寺の|地主《じしゆ》であったが、教待もまた、|園城《おんじよう》寺(|三井《みい》寺)の地主のようなもの(地主そのものとはいえないが)であったとされている。もちろん、本当にいた人であるのかどうかは、はなはだ疑わしい。  園城寺は、比叡山延暦寺の第五世の|座主《ざす》である|智証大師円珍《ちしようだいしえんちん》によって再興され、延暦寺の山門派にたいする寺門派の本山として、多数の名僧、学匠を輩出してきた。本書で取り挙げた|千観《せんかん》も、その中の一人である。教待は、智証大師が園城寺を再興するときの話に登場する個性的な人物である。その話というのは、以下のようなものである。  天台座主として世に名高い智証大師は、みずからの門弟を集めて延暦寺から独立させようと考え、その拠点となる土地を求めて、あちらこちらと見て歩いていた。そしてあるとき、智証大師は、近江の国志賀郡にある、かつて|大友皇子《おおとものおうじ》が建立した古寺に行き当たった。大友皇子というのは、天智天皇の子であったが、皇位継承をめぐって勃発した|壬申《じんしん》の乱で、天皇の弟の|大《おお》|海人《あまの》|皇子《おうじ》(即位後の天武天皇)の軍勢に敗れ、自殺して果てた悲劇の皇子である。  さて、寺のありさまを見ると、東には琵琶湖、西には深山、北には林、南には谷があり、みごとな景観である。金堂は|瓦葺《かわらぶ》きで、|裳層《もこし》がついて二階建てのような造りになっており、中には|丈六《じようろく》の弥勒菩薩像が安置されている。寺のほとりに僧房があり、寺より少し下ったところには石筒を立てた井戸が一つある。  そこに一人の僧が現われ、 「この寺に住まいなす僧でございます」 と名乗って、大師に井戸の説明をした。 「この井戸はただ一つであるにも関わらず、|三井《みい》と呼ばれております」  大師がその名の由来を問うと、僧は、 「天智、天武、持統の三代の天皇がお生まれになったとき、この井戸の水が|産湯《うぶゆ》に使われました。そこで三井と呼ばれるようになったのです」 と応えた。景観、風情、由緒、いずれをとっても申し分のない寺である。  大師は、もう少し様子を知ろうと思って、僧房を覗いてみたが、誰もいる気配がない。ふと見ると、近くに荒れた僧房がある。これを覗き見ると、一人の老僧がいる。ところが、よくよく見ると、あたりには魚の|鱗《うろこ》や骨が食い散らかしたままになっていて、たいへんな悪臭を漂わせている。  その隣の僧房に僧がいたので、大師が、 「この老僧はいったいどのような僧であるのか」 と尋ねると、 「この老僧は、もう長い間、琵琶湖で取れる|鮒《ふな》(『古今著聞集』によれば、魚やすっぽん)ばかり食べていて、ほかのものはまったく口にしませんのじゃ(同じく『古今著聞集』によれば、酒以外のものも飲まなかった。さらにまた、『本朝神仙伝』には、ひたすら少女ばかりを愛していたとある。)」 と言う。そうは言われたものの、老僧の姿を見ると、きわめて高潔な僧のように見える。大師は、これは何かあると直観し、この老僧を呼んで話を聞いてみた。  老僧はこう語った。 「みどもがここに住まってから、すでに百六十年(『古今著聞集』では百六十二年、『本朝神仙伝』では数百年)になり申す。この寺が造られたのは百八十年前のことでござるが、弥勒菩薩がこの世に現われたもうとき(釈尊がなくなられてから五十六億七千万年後とされている)まで維持すべき寺でござる。ところが、この寺を維持してゆく人がおり申さぬ。そういうところに、今日幸いに、大師がここにお出で下さいましたゆえ、この寺は、今より後とこしえに大師にお譲りいたしまする。大師をおいて、ほかにこの寺を維持して下さるにふさわしいお方はおいでになりませぬ。みどもは年老いて心細い思いをしており申したが、こうして寺をお伝えすることができ、まことに喜ばしく存じまする」  こう語って、老僧は、感涙にむせびながら、自房に帰っていった。  するとそのとき、|唐車《からぐるま》(美しく飾りたてた牛車の一種)に乗って、いかにも貴げな人がどこからともなく現われた。この人は、大師を見てたいへん喜び、 「われは、この寺の仏法を守らんと誓ったものである。しかるに今日、この寺をすばらしい聖人に伝えることがかない、仏法を広めていただけることになった。われは、今よりは、大師を深く信頼いたす所存である」 と告げて引き上げていった。  大師がまわりの人に、今のお方はどなたにておわすのかと尋ねると、|三尾《みお》の|明神《みようじん》(園城寺の鎮守の神の一)にておわすとのことである。なるほど、貴げに見えた道理である。  さて、大師は、先ほどの老僧のことが気にかかり、あらためてその老僧の様子をよくよく見ようと思い、荒れた僧房に引き返した。すると、確かに初めは耐えがたい悪臭を|撒《ま》き散らしていたのに、今はえも言われぬ香ばしい香りがする。やはりそうだったのだと思って中に入ってみると、鮒の鱗や骨だと見えたものは、実は、色鮮やかな蓮華を鍋で煮て食い散らかしたものであった。(『本朝神仙伝』には、教待が魚肉を食ってそれを吐き出すと、蓮の葉に変じたとある。)  驚いて隣の房の僧に訊くと、この老僧は教待和尚といい、人の夢のなかでは弥勒菩薩として現われたもうのであるという。大師はこれを聞いてますます貴く思い、園城寺引き受けの件を堅く約束して比叡山に帰った。(『今昔物語』一一の二八、『古今著聞集』二の四〇、『本朝神仙伝』七)    |報《ほう》 |恩《おん》  備前の国の人であるが、生年は不明。十五歳で出家し、三十歳で吉野山に入って修行を積み、天平勝宝四年(七五二年)、孝謙天皇の病気平癒の祈祷のために、勅命によって受戒得度し、報恩と名乗った。天平宝字四年(七六〇年)、大和の国高市郡八多の郷小島山に小島山寺(あるいは小島寺)を開き、賢心をはじめとする多くの弟子を育てた。延暦四年(七八五年)、桓武天皇の病気を平癒せしめた功績により、修行大十禅師の号を賜わり、延暦十四年(七九五年)六月に示寂。(『元亨釈書』感進四の一、など)  以上が報恩大師の生涯のあらましであるが、報恩大師(あるいは弟子の賢心)が有名なのは、行叡居士から京都東山の一角の土地を附嘱され、後の清水寺の基を築いたという話によってである。この話は、すでに「行叡」のところで紹介した。  また、仙人としては、このような話も伝えられている。  報恩大師は、数十歳を数える年齢に至っても、幼い、ないし若々しい顔立ちを保っていた。また、小島寺と清水寺とは、歩いて二、三日かかるところにあるが、大師は、朝方に小島寺を発して、昼にはもう清水寺に到着することができた。翼がないにもかかわらず、まるで飛ぶがごとくであったという。(『本朝神仙伝』八)    |日《にち》 |蔵《ぞう》  日蔵は、出自不明とも、京都の人で、当時の超一流の文人で、醍醐天皇に『意見封事十二箇条』を提出したことでも有名な|三善清行《みよしきよゆき》の弟であるとも伝えられている。また、朱雀天皇の御子であるというものまである。  十二歳のとき出家、|金峰山《みたけ》の|椿山《ちんざん》寺に入って名を|道賢《どうけん》と称した。六年間の修行の後、京都の東寺において真言密教を修得し、また再び金峰山に戻って難行苦行の日々を送り、数々の験力を身につけた。天慶四年(九四一年)八月、金峰山で修行中に気絶、冥界を遍歴して、十三日の後に蘇生した。その冥界遍歴の途上、金峰山浄土で|蔵王《ざおう》菩薩に出会い、「日蔵九々、年月王護」の八文字の札をもらったという。(また、菅原道真の霊にも出会ったという。)そこで、それ以後、名を道賢から日蔵に改めた。後に、大和の国宇陀郡の|室生《むろお》山龍門寺に住し、寛和元年(九八五年)に示寂した。享年一百余歳であった。  冥界遍歴以外にも、日蔵にはいくつかの逸話が伝えられている。  あるとき日蔵は、土を掘って、前生においてみずからが埋めておいた|鈴杵《れいしよ》(柄が金剛杵の形をした鈴で、密教の法具の一つ)を取り出した。日蔵は、|二生《にしよう》の人、つまり、前生と今生を知っている人であった。(『本朝神仙伝』二九、『元亨釈書』感進四の一)  また、室生山に入ったとき、日蔵は足が|腫《は》れて、歩行することができなくなってしまった。これは、この山の神が、山中をあまりあちこちと人が歩きまわるのを嫌ったためである。ところがある日、真言宗小野流の開祖である|仁海《にんかい》僧正が、密教を学ぼうと思って、室生山の日蔵の庵を訪れた。(真偽のほどは定かでない。)これを見て日蔵はこう忠告した。すみやかにお帰りになるがよい、ここに逗留してはならぬ、さもなければいかなることになるか、拙僧がそのよい手本じゃ、と。(『本朝神仙伝』二九)  日蔵はまた、経典を独特の節回しで読誦する声明と管絃に、勝れた才能を発揮した人としても知られている。金峰山の山中で修行していた日蔵上人が、蔵王権現の力をいただいて、弥勒菩薩の住まいなす|都率《とそつ》の内院に詣でたとき、菩薩、|聖衆《しようじゆ》の仲間に加わって、弥勒菩薩を供養するに唱歌をもってしたという。(『本朝神仙伝』二九、『源平盛衰記』一五)  また、先に紹介した泰澄と同じように、日蔵は、かつて、京都の松尾の社に詣でて、その|本地《ほんじ》を知ろうと思い、三七、二十一日の間、夜になると修行し、経典を|念誦《ねんじゆ》した。その最後の日、凄まじい雷鳴とともに暴風雨が襲いかかり、あたりは漆黒の闇となった。そこに一人の老人が現われ、このようなところで何をいたしておるのかと日蔵を叱責した。そうするうちにも、風は荒れ狂い、あたりの草をなぎ倒し、社殿の戸を数十百枚ばたばたと翻した。日蔵は耳をふさいで社殿の中にじっと坐っていた。するとやがて、風の音に混じって声が聞こえ、われは|毘婆尸《びばし》仏(釈尊を第七仏とする過去|七仏《しちぶつ》の第一仏)であると告げた。はっとして日蔵が声の主を見ると、先ほどの老人であったという。(『本朝神仙伝』二九、『元亨釈書』感進四の一)  ついに日蔵も|黄泉《よみ》の国に帰っていった。棺に入るには入ったが、すぐに遺骸はどこかに消え失せてしまった。ある人によれば、日蔵の遺骸は解けて(溶けて)なくなってしまったのだという。(道教の書『|抱朴《ほうぼく》子』二「論仙」には、死後に遺骸が消え失せる人のことを「|尸解《しかい》仙」と称するとある。)(『本朝神仙伝』二九、『元亨釈書』感進四の一)    |蓮《れん》 |寂《じやく》  わが国の仙人は、多くは吉野の|大峰《おおみね》山、|金峰山《みたけ》など、奈良盆地の南方の山々で修行している。しかしもちろん、仙人が出てくる霊山はそれだけではなく、全国至る所にある。|殷賑《いんしん》を極めた京の都のすぐ近くにも、|愛宕《あたご》山や|比良《ひら》山などがある。ここで取り挙げる蓮寂は、京の都の北東、比叡山の北方に峰を連ねるこの比良山で仙人になった人である。なお、残念ながら、その出自、生没年はまったく分かっていない。  ただ、蓮寂の話に出てくる「|葛河《かずらかわ》の|伽藍《がらん》」というのは、まず間違いなく、天台座主円仁(慈覚大師)に師事し、延喜十八年(九一八年)に八十八歳で示寂した相応の建立になるという明王院葛川寺であり、この話を記載している『大日本国法華経験記』は長久年間(一〇四〇〜一〇四四年)に書かれたとその序文にあるから、蓮寂は、ともかく平安時代中期の人である(実在の人であるかどうは分からないが)ということになる。  さて、その蓮寂の話は以下の通りである。  琵琶湖西岸に注ぐ|安曇《あど》川の中流に葛河の伽藍(寺)があり、そこに一人の|沙門《しやもん》(修行僧)がいて、長い年月にわたり、食を断つなどの難行苦行に励んでいた。ある夜、この沙門の夢に一人の僧が現われ、このように告げた。 「よく知るがよい。比良山の峰に一人の仙人の僧がいて、法華経を|読誦《どくじゆ》しておる。諸仏、諸天もこの仙人を|讃嘆《さんだん》し、礼拝しておいでである。その仙人のもとに赴き、親しく接して|結縁《けちえん》せよ」  ここではっと夢から覚めた沙門は、ただちに比良山に分け入った。何日かかかって山の中を探し求めていたところ、ついに法華経を読誦する声を耳にした。その声は、何にも比することができないほど美しく、調子のほども高からず低からず、心に深くしみ入るのであった。沙門は大喜びでその声のする方角を目指して駆け出したが、なかなか見つからない。あちこちとずいぶんさまよった末、ついにそれらしい場所にたどり着いた。  そこは、少し平らな棚になっていて、崖を背にして三方が下っている。崖には岩の洞窟があり、その棚がちょうど庭になっている。庭には苔がむし、篠竹が生え、岩に根を絡ませた大きな松の樹が、枝葉を四方に垂らし、庭をすっぽりと覆うように茂っている。松を吹く風の声はあたかも音楽のようである。雨が降っても、松が笠となって、庭を濡らすことがない。また、この松は、暑いときには、涼しくすがすがしい影を作り、寒いときには、風をさえぎって、おのずから温暖の気を保ってくれる。見れば見るほど、まことに絶妙の場所である。  ここに仙人が住んでいた。そのありさまを見るに、血も肉もすべて枯れ尽くし、ただ骨と皮だけを留めている。姿や顔立ちはこの世のものとは思えないほど異様で、|青苔《せいたい》の粗末きわまる衣を身にまとっている。  仙人は沙門にこう言った。 「いや、珍しくもよくぞここに参られた。じゃが、今しばらくは少し離れたところに住まわれよ。ここに近づくことはあいならぬ。これにはわけがあってのう、おぬしから立ち昇る俗気の煙が目にしみて、涙が出て出てたまらぬのじゃよ。それに、おぬしの体の血や|膿《うみ》が|腥《なまぐさ》くて鼻が曲がるほどでのう。七日を過ぎたならばまたここにおいでなされ。そのときに、ともに語り合うことにいたそうぞ」  沙門は仙人のことばに従って、そこから二、三段(約二、三〇メートル)離れたところを居処と定めた。そして、安らかな心地で坐し、昼となく夜となく仙人が法華経を読誦するのを聞いているうちに、心身が壮快になり、ふつふつと喜びが湧いてくるようになった。こうしている間、見ると、鹿、熊、猿、そしてそのほかの鳥や獣たちが、さまざまな木の実、草の実を運んできては、仙人に供養していく。また、仙人からの使者として、猿がその実を分けて届けにきてくれる。こうして七日を過ごした後、沙門は仙人のもとに参上した。  仙人はみずからのことをこう語った。 「わしは、もと興福寺の僧で、法相宗の学徒であった。蓮寂というのがわしの名じゃ。あるとき、法華経『|譬喩品《ひゆぼん》』の『|汝若不取《によにやくふしゆ》、|後必憂悔《ごひつうけ》』(もしも〔この玩具の乗りもの、つまりは仏法を〕取らないならば、後で必ず悔いることになるぞ)という一文を見て、はじめて|菩提心《ぼだいしん》(さとりをめざす心構え)が芽生えてのう、それからまた、同じ法華経『|法師品《ほうしぼん》』の『|寂寞無人声《じやくまくむにんじよう》、|読誦此経典《どくじゆしきようでん》、|我爾時為現《がにじいげん》、|清浄光明身《しようじようこうみようしん》』(ひっそりとして人の声の聞こえないところでこの法華経を読誦するならば、そのとき私〔釈尊〕は、その人に、清浄で光輝く身体を見せるであろう)という一文を見るに及んで、寺を去り、跡を山林に隠した。身体をいつくしみ、命を惜しむなどということをきっぱりと止め、修行を重ね、功徳を積んで、ついに仙人となったわけじゃ」 「あの峰この谷と、ずいぶんあちこちに遊行したが、まあ宿世(過去世)の縁というのであろうか、この山に入ってからは、ずっとここに住んでおる。わしは、人の世を|厭離《えんり》した後は、法華経を父母とし、法華経に説く教えを師とみなし、一乗(法華経でいう最高の教え、つまりは大乗)を住処とし、戒律を身の守りとした。わしは、一乗によって、はるか遠くのものを見、生きとし生けるものすべての声を聞き、いっさいの法を知ることができるようになった。また、一乗によって、|都率《とそつ》天に昇り、|弥勒《みろく》菩薩にお目にかかり、さらに別のところに赴いてもろもろの聖人と親交を結んだ。天魔も悪鬼も、わしに近寄ることがなく、いかなる災いも襲ってくることがない。いついかなる所でも、意のままに仏を見、法を聞くことができるのじゃ。おぬしがここに尋ねてきたというのも、少なからぬ縁があったからじゃ。ここに住まって、仏法を修行なさるがよろしかろう」  この沙門は、蓮寂仙人のすすめに従おうとは思った。しかし、仙人になるということは並みたいていのことではない。この沙門は、もう一つ性格が柔弱で、とても仙人になる器ではなかった。沙門はこのことを自覚し、深く恥じて、結局山を降りることにした。仙人の神通のおかげで、沙門は、その日のうちに葛河の伽藍に戻ることができたという。(『大日本国法華経験記』上の一八、『今昔物語』一三の二) [#改ページ]   反骨の人 [#改ページ]   |玄《げん》 |賓《ぴん》  僧というのは、そもそも出家した人、つまり、世俗の生活と価値体系をきれいすっぱりと断ち切った人のはずである。であるから、生産に従事したり、蓄財に浮き身をやつすなどということは、少なくとも釈尊の時代には完全に御法度であった。日々の食い扶持は、日々の|乞食《こつじき》、|托鉢《たくはつ》によって確保すべきで、明日、明後日の食い扶持を思いわずらってはならないのである。  そしてまた、出家者の集団は、本来全員が平等なのであるが、やはり組織である以上、おのずから上下関係というものが必要になる。そこで古くは、受戒して正式に出家してからの年数の長短を、上下関係の基準とした。中国仏教では、この年数を|法臘《ほうろう》と呼び、それに基づく席次を|臘次《ろうじ》といったが、ともかく、出家の世界に、世俗の秩序原理が入りこむことはきつく戒められていた。  ところが御存じのように、わが国では長い間、出家の世界は、|僧綱《そうごう》制(明治になって廃止)によって世俗の権力の管理の下に置かれてきた。僧正、|僧都《そうず》などの序列が世俗法によって制定され、重要なポストは朝廷や幕府に任免権があるというのだからたまらない。  とはいえ、出家の方も出家の方で、世俗の権力から頂戴するポストをこの上ない名誉に思い、後生大事にありがたがるというありさまで、やがては、在俗時の家柄によって昇進のスピードが違うとか、人脈的にいってこちらよりもあちらの系列に入った方が有利だといったように、門閥、派閥が幅を利かせ、人事異動(?)が発表されるたびに山は一喜一憂し、|貪瞋癡《とんじんち》の三毒が猛威を振るうこと、あたかも俗界におけるがごとしということも珍しくなくなった。というわけで、心ある僧たちは、|名聞利養《みようもんりよう》の道に迷い入ることを避けるため、重要なポストへの就任を固辞したり、山から出奔したりした。  玄賓をはじめ、この章で述べるのは、こうした行動をとったことで世の人びとに深い感銘を与えた僧たちである。  玄賓は、|河内《かわち》の国の人で、俗姓は|弓削《ゆげ》氏、天平年間の生まれである。「玄敏」と書かれることもある。弘仁九年(八一八年)に|遷化《せんげ》、享年八十余歳であった。  玄賓は、奈良の興福寺で、|宣教《せんぎよう》という人を師として法相唯識の教学を学び、たいへんに博学な学僧として名高かった。しかし、世を厭う心が深かったため、寺のほかの僧たちとの交わりをほとんど持たなかった。右にも述べたように、寺の中でさまざまな「正常な」(?)人間関係を維持しようとすれば、どうしても世間並の、いやそれどころか下手をすれば世間以上に愚かしい営みを余儀なくされることが目に見えていたからである。そしてついには、寺を飛び出し、三輪山の麓、初瀬川のほとりに、ほんのささやかな庵を結び、静かに瞑想にふける隠遁の日々を送った。  この玄賓の振舞いは、玄賓の思惑をはずれ、かえって世の注目を集めたとみえる。延暦二十四年(八〇五年)、桓武天皇はこうした話を耳にし、何のかのと理由をつけて渋る玄賓(当時、|伯耆《ほうき》の国に逗留していたという)を無理やり招き出し、伝燈大法師という称号を授けた。このときは、桓武天皇の強引なやり口に押し切られて、玄賓もいたしかたなくこれを受けた。  しかし、玄賓としてはこれはまことに不本意きわまることであったに違いない。その後、平城天皇から、大僧都に任ぜられたが、このときは断固としてこれを拒否し、次の歌をもって返答したという。 [#ここから2字下げ] 三輪川のきよき流れにすすぎして衣の袖をまたはけがさじ [#ここで字下げ終わり]  簡潔にして明快な歌であるから、あえて解釈を施す必要もないが、今のわが身にはこうしたはからいは迷惑千万という心情がよく表わされている。(『発心集』一の一、『扶桑隠逸伝』上)  こうしたことがあってしばらくの後、玄賓は、弟子にも使用人にも知られることなく、突如として行方をくらました。弟子たちは心当たりをくまなく捜したがどうにも見つからない。空しく時が過ぎるばかりで、弟子たちはもちろん、玄賓に心魅かれる世の人びとも、ただただ嘆息を洩らすのみであった。  それからかなりの年月が経った。玄賓のかつての弟子が、あるとき、所用あって北陸方面に赴いたのであるが、その途上、大きな川に行き当たり、渡し舟の便を得てこれに乗りこんだ。さて、この渡し守の風体はと見れば、もう長い間剃らないでいたらしく、簡単にぐいっと掴めるほどに髪をぼさぼさに伸ばし、薄汚れた粗末な麻の衣を引っかけた、見るもみすぼらしい法師である。  ずいぶんひどい恰好をしているものだと眉をひそめて見ていたのであるが、何かぴんとくるものがあった。はて、どこかで見たことのあるような人だがと、あれこれと思いめぐらすうちに、これは、長年行く方知れずになっているわが師匠の玄賓僧都であるということにはたと気がついた。まさか、いやひょっとして何かの見間違いではないかと目をしばたいてよく見たが、もはや見間違いようもない、正真正銘の玄賓僧都である。そう確認したとたん、この僧はこみあげる感慨に胸ふたがれながらも、あふれ出る涙をこらえつつ、視線をそらせ、何も気がつかなかったふりをした。  どうやら玄賓の方でも気がついているようすであるが、わざと視線をそらせている。走り寄って、「どうしてこのような所に、このような恰好をしておいでなのですか」と訊ねたいのはやまやまながら、「これだけ人の目が多い中でそういうことをしては、かえってややこしいことになるかもしれない。また都に帰るときに、夜にでも、人に僧都のいらっしゃるところを聞き出すことにしよう。そうすれば、ゆっくりとご挨拶することもできよう」と考え直し、ここはそのまま旅を続けた。  さて、この僧が都への帰り道、その渡し場に来てみると、まったく別人が渡し守をやっていた。目の前が真っ暗になり、胸が締めつけられる思いでその渡し守に、これはいったいどういうことになっているのかと、事の詳細を訊ねたところ、こういう答えが返ってきた。 「そうですねえ、そういう法師はたしかにいましたね。もう長いことここの渡し守をしていましたが、こんな生業をしている|輩《やから》には似合わないことをしとりましたなあ。なにせこう、いつも心を澄ました感じで念仏ばかり唱えているというふうでしてね、だいたいからして、ろくに船賃を取ったことがなかったんですからね。ただその日の食いものさえ手に入ればいいというわけで、あとは何を欲しがるでもないんですよ。だから、ここらあたりの里の連中からはずいぶん好かれてましたですよ、本当に。まあだけど、うーん、どうしたわけがあったんでしょうかねえ、ちょっと前のことなんですけどね、ある日突然、こう、ふいっと姿が見えなくなりましてね、どこに行ったのかさっぱり分からないんですよ」  今や遅し、僧はかえすがえすも残念に思いながらも、念のために玄賓僧都が失踪してからの日数を訊いてみたところ、これがちょうど計算に合う。玄賓僧都は、自分にばったりと行き合ったあの後すぐに行方をくらましているのである。見つけられたと知って、またどこかに去ってしまったに相違ない。この僧は、今さらなす|術《すべ》もなく、ただ溜息をつきつつ都に帰っていった。(『発心集』一の一) [#挿絵(img/fig3.jpg)] 『発心集』には、この話の後に、こう書かれている。すなわち、わりあい最近のことであるが、三井寺に|道顕《どうけん》僧都(文治五年〔一一八九年〕没、五十五歳)という人がいて、玄賓僧都の物語にいたく感激し、「なるほど、罪障を積むことなくこの世を渡るには、渡し守になるのが一番だ」と思い、琵琶湖に一艘の舟を用意したが、結局、計画倒れに終わり、舟は石山の岸に空しく朽ちてしまった。しかしながら、求め願うその志には、やはり貴いものがある、と。  そのようなことがそれほど貴いものであるかどうかは判断の分かれるところであろうが、当時、遁世に心を傾けるほどの人びとの間では、玄賓は理想の人物として憧れの的であったことは確かである。このことは、鴨長明が『発心集』の冒頭に玄賓の話を二つ続けて掲載していることからも推察できる。その二話のうちの一つが右の話であり、もう一つが以下の話である。  伊賀の国のある郡司のもとに、あまり風体のよくない法師がある日ふらりとやってきて、どうかここで雇っては下さらぬかと言う。主人はこれを見て、 「いや、おぬしのような坊さまをここに置いてもどうしようもない。何かの用に使うといっても何の用もないではないか」 と言ったところ、その法師はこう答えた。 「まともな僧侶であればともかく、みどもごときの者は、たとえ法師であるといったところで、そこらの下男と何の変わるところもござりませぬ。どんなことでござりましょうとも、この身にできることでありましたならば何でもいたす所存でござりますゆえ、そこを何とか……」  そこで主人も、そういうことであればというわけで、この法師を召し抱えることにした。様子見にあれこれ使ってみると、なかなか丁寧に、しかも喜んで仕事をするので、主人は、自分がことさら大切にしていた馬の面倒を、この法師に任せることにした。  こうして三年ほど経った頃、主人の郡司は、国司に対していささか不都合なことをしでかしたため、国の内から追放されるという破目に陥った。この郡司は、祖父の代から当地に居ついている者であったから、所領も多く、一族郎党もかなりの数に上った。であるから、他国に追われてさまようというのは、とにかくたいへんに頭が痛く、悲嘆の極みであったが、何しろ事情が事情なのでいたしかたのありようもなく、泣く泣く|出立《しゆつたつ》という仕儀にあいなった。  この様子を見た例の法師は、ある人に、 「この殿には、ずいぶんたいへんな難儀が降りかかってきたようにお見受けいたしますが、いったい何事が起こったのでござりましょうか」 と訊ねたところ、 「おまえのような下郎がそのようなことを聞いてもしかたなかろう」 と、まったく取りあってくれない。それでもなお、 「このような大事のときに、いかに身分が低いからといえ、どうしてまったく関わりがないと言えましょうや。お仕えいたしてもう何年にもなり申す。これでは、あまりにも水くさいというものではござりませぬか」 と、熱心に食い下がったところ、ようやく事の次第をありのままに教えてくれた。  そこで法師はこう語った。 「みどもがこれから申すことは、必ずしもお取り上げいただけぬかもしれませぬが、そもそも、どういうわけでかくも大急ぎに出て行かれようとしておいでなのでございましょうか。ものごとには、思いも寄らぬことがあるというではありませぬか。まずは京に上り、こちら側の実情を何回も何回も申し述べて、それでもなお駄目であるということになりましたならば、そのときにはいずこなりともいらっしゃればよろしかろうと存じます。国司の側の人で、みどもが少しばかり知っている人がございますから、尋ねていって話をしてみようかと思いますが、いかがなものでございましょうか」  この意外な話に、人びとは、これはまた見かけに似ずえらいことを言い出したものだと不審に思い、郡司にこれを伝えた。郡司は、法師を近くに呼び寄せて、みずからこの話を尋ね聞いた。郡司としては、ひたすらこの法師の言うことを信頼するというわけでもなかったが、ほかにこれといった方策もなかったので、法師を連れて京に上った。  当時、伊賀の国の国司を務めていたのは、大納言なにがしという人物であった。この大納言の邸宅の近くまで来たとき、法師が言った。 「人の邸宅を訪問すると申しても、この風体ではいかにも見苦しく存じますので、|袈裟《けさ》と衣を求めてはいただけませぬか」  そこで袈裟と衣をさがし、これを借りて法師に着させた。  さてこうして目指す大納言の屋敷に到着したのであるが、郡司を門のところに待たせておき、法師が中に入って、 「お頼み申す」 と声を上げたところ、何と、そのあたりにいた人びとは、その声の主に目を向けるや、いっせいに地面にひざまずいて敬意を示すではないか。伊賀の郡司は、門のかたわらからこのありさまを見て、腰が抜けるほど驚き、 「これはまた、いったいどうしたことじゃ」 と、目を|瞠《みは》るばかりであった。  報告を受けた大納言は、取るものも取りあえず飛び出してきた。法師に挨拶をし、大騒ぎで応対しているさまは、とても尋常なことではない。 「いやはや、いったいどういうことになっておしまいになられたのかと、思いめぐらす手がかりもないまま、それっきりになっておりましたが、紛うことなくあなた様がおいでになられるとは、これはもう……」 などと、大納言はくどいほど思いのたけを述べたてるのであるが、これに対して、法師は言葉少なにこう語った。 「まあまあ、そのようなことは、またいずれゆっくりとお話しいたしましょう。今日は特別の話があって参ったのでござる。それというのも、拙僧は、伊賀の国で、この年月、ある人のやっかいになっておるのじゃが、この人が、思いもかけぬ処罰を蒙りましてな、国を追われることになり、いたく難儀をいたしておる。まことに気の毒に思う次第で、そこでじゃ、もしたいした罪でないのならば、この法師に免じて許してやっていただくわけには参りますまいか」 「これはもう、どうこう申し上げることではございません。そういうことであなた様が気におかけになられるほどの人物でありますならば、ことさら罰を下さなくとも罪をよく自覚できるに相違ございません」  こうして話はすんなりと運び、また、玄賓の申し出もあったので、大納言は、かの郡司に対して、以前にも増す処遇を盛りこんだ|庁宣《ちようぜん》(国司の命令書)を喜んで下付した。伊賀の郡司はびっくりしておおいにとまどったが、これももっともなことである。  郡司は、その場で玄賓に感謝しなければならないことがたくさんあったが、あまりの事の成りゆきに、かえって適当な言葉が出てこない。宿に戻ってからゆっくりと申し上げることにしようと思っているうちに、玄賓の方は、袈裟と衣を脱ぎ捨て、その上に先ほどの庁宣を置くや、さっと立ち去ってしまい、そのままいずこともなく姿をくらましてしまったという。(『発心集』一の二)  このような玄賓も、やはり人の子、木石ならぬ熱い血の通った男であって、初めから|貪瞋癡《とんじんち》の三毒を離れた聖人であったわけではない。若い頃、色欲の煩悩に深く|苛《さいな》まれ、あわや|不犯《ふぼん》の戒を破るばかりか、世間的にも不倫の|誹《そし》りをまぬがれないという、ぎりぎりのところにまで行きついたことがあったとしても、ことさら驚くべきことではないのかもしれない。  さて、このような若い頃の玄賓を描いたと思われる、まことに興味深い話が、同じく『発心集』の中に伝えられている。かなり艶っぽく、またちょっとアブノーマルな話なのであるが、まずはご|覧《ろう》じあれ。  昔、玄賓僧都という、たいへん貴い人がいて、身分の貴賤を問わず、万人が仏のように仰ぎ慕っていたのであるが、なかでも、大納言なにがしという人は、長年、僧都に接し、ことのほか深く帰依していた。  さて、あるとき、玄賓僧都はどことなく患らったふうで、何日も調子が悪そうにしていた。大納言は心配で、とうとう居ても立ってもいられず、みずから様子を伺いにいった。 「ご気分のほどはいかがでしょうか」 などと、ねんごろに訊ねたところ、 「ちょっと近くまでおいで下さい。申し上げることがあります」 と玄賓が言う。はて、どういうことであろうかと思いながら大納言が近くに寄ると、玄賓は声を低くしてこのようなことを語った。 「本当のところを言いますと、たいした病でもないのです。実は、先日、貴殿のお宅に参りましたときのことです。たいへんに美しい奥方の姿形を、ほんのちらりとお見受けしたのですが、それからというもの、頭がぼおっとし、心がまどい、胸がふたがる思いに取りつかれてしまいまして、口を利くこともできなくなったというわけなのです」  それからさらに、こう言葉を継いだ。 「このようなことは、口にするだけでもはばかりのあることではあるのですが、拙僧は貴殿を深く信頼しております。このようなことで貴殿と心の隔たりを作ってどうしてよかろうかと、思い悩んでいるのです」  これを聞いた大納言は、びっくりしてこう言った。(これもまたびっくりものなのであるが。) 「それならば、どうしてもっと早く言っては下さらなかったのですか。いともたやすいことですよ。すぐにご病気を治して進ぜましょう。ともかく私の家においで下さい。おっしゃりたい趣旨はよく分かりましたから、お望みがかなうよう、ご便宜を計らせていただきますよ」  家に戻った大納言は、さっそく、奥方に事の|顛末《てんまつ》とこれからの計画を洗いざらい打ち明けた。奥方はこう答えた。 「もちろん私に異存はございません。あなたがいい加減な気持で仰っておいでではないということはよく分かります。よくよくのことなのでございますね。考えてみますと、ずいぶんとあさましい振舞いをしなければならないわけですから、気がとがめないでもないのですが、あなたがそこまで仰ることですから、いやだとは申しません」(夫婦合意の|邪婬《じやいん》というわけで、何ともポルノティックな話ではあるが、まあ、要するにそれだけ奥方が夫の大納言を深く信頼しているということですな。)  そこで、あれこれと用意を整え、僧都の望みがかなうようにしつらえた。  さて、玄賓僧都は、法服を正式の作法通りにたいへんにきちんと身にまとってやってきた。その姿を見て、大納言の方では少し不審に思ったが、ともかく、それなりに仕切ったさるべき場所に僧都を案内した。  ところが、玄賓僧都は、奥方が美しく装っているのを、|一時《いつとき》(今の時間単位で約二時間)ほどまじまじと見つめ、ときどき|爪弾《つまはじ》きをするだけであった。そして、奥方のそばに寄る気配すらも見せることなく、そのまま中門の廊に退出し、衣を頭にかぶって帰っていってしまった。  このことがあってから、大納言が玄賓僧都をますます敬うこと限りなくなった。おそらく玄賓僧都は、不浄観を行じて、その執着の心を|翻《ひるがえ》したのであろう。(『発心集』四の六)  蛇足ながら、不浄観について簡単な説明をしておこう。  不浄観というのは、過ちの心を止める五|停心観《じようしんかん》(不浄観、慈悲観、因縁観、|界分別《かいふんべつ》観、|数息《すそく》観の五観のことで、四番目の界分別観を観仏に代えると五種観門と呼ばれる)に収められる観法(瞑想法)の一つである。不浄観はまた、さまざまに分類されており、それを逐一フォローするのも煩雑なので、ここでは『発心集』の説明をみることにする。それにはこうある。 [#ここから1字下げ] 「不浄観というのは、人の身体が穢らわしいということを心に刻みつける観法である。諸々の法は、すべて仏の教えられたものではあるが、聞いても今一つぴんとこないことは、凡夫にはなかなか得心がいかない。ところがこの観法は、目に見えるものを対象とするので、心にしっくりとくる。さとりやすく、また考えやすい。『もしも、他人に愛着の心を起こし、しかもなおみずからに道心があるというのであるならば、必ずや不浄の相を思うべきである』と言われている通りである。  全般に、人の身体というものを見るに、その骨や肉の構造は、あたかも朽ちた家のようである。五臓六腑のありさまは、毒蛇がわだかまっているのと同じである。血は身体を潤し、筋は関節を保持している。わずかに薄い皮が一枚これを覆っているために、こうした諸々の不浄が隠されているのである。おしろいを塗り、香を|焼《た》いて芳香を身に移していても、どうして偽りの飾りであると見抜けないことがあろうか。山海の珍味も、一晩経つとすべて不浄なものになってしまう。いわば、美しい紋様を描いた瓶に穢らわしい糞を入れ、腐った|亡骸《なきがら》に錦をまとったようなものである。たとえ大海を傾けて洗い流そうとも、清浄にはなりえない。また、たとえ|栴檀《せんだん》を焼いて芳香を漂わせても、いつまでもというわけにはいかない。  ましてや、魂が去り、命が尽きたならばなおさらである。屍体を墓場のあたりに捨ててみるがよい。膨張して腐乱し、ついには白骨となる。これを見れば、身体の真実の姿を知ることができるので、絶えず身体を厭う心が生ずる。『愚か者は|仮《け》の|色《しき》(実体のない物質)にふけり、心を惑わす。このさまは、例えば|廁《かわや》の蛆虫が穢らわしい糞を愛するようなものである』と言われている」 [#ここで字下げ終わり]  つまり、巷間言われる、いかなる美人も|糞袋《くそぶくろ》、ということを繰り返し心に刻みつけ、他人と自分の身体に対する執着、肉欲を断つというのが、不浄観の趣旨である。  なお、晩年の玄賓に対して、嵯峨天皇は、毎年、布を贈り、玄賓の庵のある郡の租税を免除したという。(『元亨釈書』感進四の一、『扶桑隠逸伝』上) [#改ページ]   |性《しよう》 |空《くう》  平安時代の中期は、浄土教の爆発的な流行によって濃く彩られているが、この爆発的な流行の大きな部分を支えたのが、「|聖《ひじり》」と呼ばれた一群の人びとである。  聖の中でももっとも有名な人物は|空也《こうや》で、この人は、もっぱら市井で念仏を広めたところから「|市《いち》の聖」と呼ばれた。空也の影響力は抜群で、世俗の権力と癒着し、煩悩の炎に包まれた比叡山などの既成教団を嫌った憂士たちは、空也を模範とし、山を飛び出し、競って市井の俗人と交わり、浄土教の流布に奔走した。  これに対して、|摂津《せつつ》の|箕面《みのお》とか|播磨《はりま》の|書写《しよしや》山といった、比較的里に近い山岳を拠点とし、広く民衆に開かれた浄土教を推進した、「山の聖」と称してしかるべき人びともいた。こうした人びとのかなり多くは、山岳宗教、ないし修験道の系譜を引いており、本書でもすでに取り挙げた|役小角《えんのおづぬ》や陽勝など、いわゆる仙人にもなりうるような、山岳における厳しい修行に身を挺している。  例えば、ここで紹介する性空も、若い頃はそのような修行に励んだということが、『大日本国法華経験記』(中の四五)に見えている。それには、おおよそ次のようなことが記述されている。 [#ここから1字下げ] 「人跡とだえ、鳥の声も聞こえない深山幽谷に庵を結んでそこに住んだ。日々の糧を望むことなく、火も煙も立てずに何十日も過ごすという生活であった。……あるときは、経巻から、目にも鮮やかな米粒が計らずもこぼれ出てくることもあった。また、夢に人が来て食物を置いていったと見て目が覚めると、本当に目の前にさまざまの食物が並んでいることもあった。……身体は痩せるどころかかえって肥え、しかも壮健であり、その堂々たるありさまは人並ではなかった。また、きわめて寒い夜、衣がぼろぼろで裸同然、身体は氷のように冷え切っていながらも、寒さをこらえて経を読誦するうちに、草庵の上から、厚い綿の服が垂れてきて、身を覆ってくれることもあった……」 [#ここで字下げ終わり]  そして、こうした人びとは、さすがに本格的仙人である陽勝などとは較べものにならないとはいえ、多少の|験力《げんりき》を発揮したりしたことになっている。ただ、絶対に陽勝などの仙人たちと違う点は、仙人たちが俗人に交わることを極度に嫌ったのに対して、こうした聖たちは、むしろ積極的に門戸を俗人に開放したという点である。しかしだからといって、概して世俗の権力にへつらうということはなかった。つまり、断固とした超俗性を貫きながら、しかも分け隔てなく俗人と交わったということである。大乗仏教の理想である菩薩道を地で行くという趣きがあり、だからこそ広く、そして長期にわたって人気を保ってきたのである。  性空は、従四位下|橘《たちばなの》|朝臣《あそん》|善根《よしね》という人の子として、延喜九年(九〇九年)、京に生まれた。母は源氏の出身である。  この母は、たくさんの子を生んだが、ことごとく難産でたいへんな苦しみを受けた。そのため、性空を懐妊したときには、流産の医方を求めて毒(なかでも、古来、蚕の黒焼が愛用されていたらしい)を服したのであるが、その効き目がまったく現われないまま、今度はすんなりと出産してしまった。ところが、その赤児は、右手(『今昔物語』では左手)を握ったまま生まれてきた。両親が不審に思って無理やりにその手をこじあけてみると、何と、一本の針を握っていたのである。(『大日本国法華経験記』中の四五、『今昔物語』一二の三四。『日本霊異記』中の三一と『今昔物語』一二の二には、六十二、三歳という高齢の母親から、女子が、やはり左手を握ったまま生まれ、七歳になってようやくその手を開いたところ、仏舎利が二粒ころがり出たとある。また、『今昔物語』「天竺部」二の一〇、一一、一四には、両手ないし右手に金貨を握って生まれたという類似の説話が載せられている。)  性空は幼少の頃から、殺生をせず、人の中に交わって騒ぐことなく、静かなところに一人でいることを好んだ。仏法を信じて、早くから出家の志をもっていたが、両親はこれを認めなかった。十歳になったとき、ようやく師に就くことを許され、法華経を習った。十七歳で元服し、その後、父を失ってから、母とともに九州は|日向《ひゆうが》の国に下った。(『今昔物語』一二の三四)  性空は、二十六歳(『今昔物語』による。『性空上人伝』では三十六歳)のときに、ようやく念願かなって出家、比叡山の|慈慧大師良源《じえだいしりようげん》を師とし、後に『往生要集』などの不滅の著作を残した若き日の源信などとともに修行にいそしんだという。  その後、再び九州に戻り、日向の国の霧島山、筑前の国の|背振《せぶり》山の山奥に庵を結び、そこに籠った。性空は、こうした霊山において、法華経をひたすら読誦しながら、あたかも修験者のように修行したのであるが、その修行ぶりは、おおむね先述の通りであると伝えられている。(『大日本国法華経験記』中の四五、『今昔物語』一二の三四)  さて、性空は、|衆生《しゆじよう》を|教化《きようげ》するために、背振山を下り、人里近い播州の書写山の、ささやかな庵に移り住んだ。  その庵で性空は、昼となく夜となく法華経を読誦した。最初にまず音読みで、そのあと訓読みで読誦するというふうであった。ところが、この読誦の速度たるや驚異的で、人がたかだか四、五枚を読むうちに、軽く一部を読み終えることができたという。  また、|布施《ふせ》の品物が、たとえ米のたった一粒であっても、あたかもそれを仏舎利のように丁重に捧持し、布の切れ端であっても、仏が着用する|大衣《だいえ》のように珍重した。およそ怒りの心を発するということがなかったので、当国、隣国を問わず、老若、男女、道俗、貴賤が、まるで雲が湧くように集まってきて、ことごとく性空に帰依した。  さらにまた、性空の温厚さと慈悲心にひかれて、山野の鳥や獣も馴れ親しんで何かと群がり集まったが、性空はこうした畜生にも惜しみなく糧を分かち与えた。こうした人徳に遠慮したのであろう、|蚤《のみ》やしらみの類ですらも、性空の体に取りついてこれを悩ますということがなかったという。(『大日本国法華経験記』中の四五、『今昔物語』一二の三四)  書写山の性空は、やがて「書写上人」と呼ばれ、誰知らぬ人のない人物となった。性空に帰依した人の中には、今日でもよくその名を知られた人が多い。以下の話に出てくる円融法皇、花山法皇もそうであるが、なかでも、女流歌人の和泉式部が有名である。激しい恋に身も心も疲れ果てたのであろうか、この人の性空に対する傾倒ぶりには並々ならぬものがあったようで、 [#ここから2字下げ] くらきよりくらき道にぞ入りぬべしはるかに照らせ山の|端《は》の月 [#ここで字下げ終わり] という名歌を遺している。いらぬ講釈かもしれないが、「山の端の月」というのは、書写山の性空のことを指す。  さてその頃のことである。円融天皇は、位を去って法皇となった後、重い病に冒されたことがある。そのとき、験力があるとされる貴い高僧が、命を受けて法皇の病気平癒を祈ったが、いっこうにその効き目が現われなかった。そこで人びとが言うことには、書写山に性空という聖人がおわしますが、この聖人は、長年にわたって法華経の持者であったお方で、験力でこの聖人にまさる人はこの世にいないであろう、であるから、この聖人を召して、祈っていただくのがよいのではないか、ということである。  そこで、一人の武将を使者に選び、たとえ性空聖人が固辞しても、何としてでも連れてくるようにとの厳命を下した。武将は、みずからの郎党のほかに、法皇の召使を一人伴い、聖人に乗ってもらう馬などを引かせ、急いで播磨の国を目指した。  最初の日は、摂津の国の梶原寺という寺の僧房に宿を取ったのであるが、この武将は、夜中にふと目が覚めて、このようなことを考えた。  書写山の聖人は、長年にわたって道心深い持経者であり続けた人である。いやだといって断られたとして、無理やり馬に乗せて有無を言わさず引き連れるというのはいかがなものであろうか。きわめて|畏《おそ》れ多いことではなかろうか、と。  このようなことを考えながらまた寝ようとしたとき、天井裏を|鼠《ねずみ》が走り、|枕許《まくらもと》に何かが落ちてきた。見ると、破れた紙の切れ端である。光の下に持っていってよくよく見ると、これは経典が破れて落ちてきたものであることが分かった。そしてそこには、法華経「|陀羅尼品《だらにぼん》」の、 「|悩乱説法者《のうらんせつぽうしや》、|頭破作七分《ずはさしちぶん》」(説法する人を悩まし苦しめると、頭が七つに砕ける) という、ちょうどその一|偈《げ》だけが書かれていた。この紙切れが落ちてきたということが何を暗示しているかは明らかである。  武将は恐ろしさのあまり総毛立ち、とんでもないことになったと頭を抱えたが、さりとてすでに厳命を受けた身である。すごすごと引き返すわけにはいかない。朝になるや、夜を日についで歩みを進め、書写山に登った。  さて、性空聖人の房はとみると、水清らかな谷のはざまの、三|間《ま》の|茅葺《かやぶき》の質素な建物である。一間は昼間の居所で、いろりなどがしつらえられている。次の間は寝所で、|薦《こも》を懸けめぐらしている。さらに次の間は、|普賢菩薩《ふげんぼさつ》の画だけが懸けられ、その画の前を右回りに歩いた軌跡が、板敷の窪みとしてはっきりと見えている。清く貴いこと限りがない|風情《ふぜい》である。 [#挿絵(img/fig4.jpg)]  性空は武将を見て問うた。 「何の用で参られたのか」  武将は答えた。 「院(円融法皇)の使者として参った者でございます。院におかせられましては、この数カ月病に臥せられ、さまざまのご祈祷がなされましたが、効き目がございません。ただご聖人だけが今は頼りである、必ずやご参上いただきたい、というわけでございます。ご聖人にご参上いただけぬうちは、院に戻ることあいならぬとの仰せを蒙っております。たとえ、参上するつもりはないとお思いになられましても、この私を助けるということで、ぜひご参上たまわりたく存じます。さもなければ、人を破局に追いこむという罪が生ずるかと存じます」 と、武将は、今にも泣き出しそうな顔をして用件を伝えた。  すると聖人は、 「それほどに言うまでのこともあるまい。参上すること自体はお安いご用じゃ。とはいえ、決してこの山から出ませぬと、仏にお誓い申し上げていることでもあるから、この由を仏にご報告申し上げねばならぬ」 と言って、仏間の方に入っていった。これを見た武将は、聖人は、何だのかだのと言って時をかせいで逃げ出すおつもりに違いないと思い、郎党どもに指図して、房のまわりを取り囲ませた。 「ご聖人、どうか私を助けると思ってご参上くださいませ」 と武将が言うと、聖人は仏の前に坐り、|鉦《かね》をたたきながら、大声で叫んだ。 「拙僧は大魔障に遭遇いたしております。助けたまえ、十|羅刹《らせつ》」  |木蓮子《むくろじ》の数珠が砕け散らんばかりに激しくもみ、額が破れんばかりに七、八度床に打ちつけ、突っ伏して泣くこと限りなかった。  このありさまを目のあたりに見た武将はこう思った。ご聖人をお連れしなかったからといって、命を断たれることはあるまい。おそらく流罪というところであろう。しかし、このご聖人を力ずくでお連れしたとなれば、現世にも来世にも、善いことはないであろう。それならば、もはやここを退散するにしくはない、と。そこで武将は郎党どもを取り集め、馬に鞭を当てて走り去った。  ところが、十数町ほど坂を下ったところで、院の召使が、この武将宛の文書を捧げて登ってくるのに行き合った。その文書にはこう記されていた。 [#ここから1字下げ] 「聖人をお迎えしてはならぬ。院におかれては、御夢に、聖人を召してはならぬという|徴《しるし》をご覧あそばされた。そこで、かかる仰せを遣わすのである。速やかに戻られたし」 [#ここで字下げ終わり]  これを見て、武将は喜びがあふれる思いであった。感激に堪えず、大急ぎで戻り、梶原寺での出来事から始まり、聖人のありさまのことに至るまでを、こと細かに院に申し上げた。院は、みずからの夢のことを思い合わせて、おおいに畏れを抱かれた。(『今昔物語』一二の三四)  その後、花山法皇が、寛和二年(九八六年)と長保四年(一〇〇二年)の二回にわたり、性空を尋ねて書写山に登っている。その二回目には、|延源《えんげん》という優秀な絵師でもある僧を引き連れていったのであるが、性空にはこの僧が絵師であるということを言わず、性空の顔形をよく観察させ、隠れたところで絵に写させた。  ところがそのとき、山が響き、地が揺れ動いた。法皇がびっくりしている様子を見て、性空が言った。 「これは、性空の形を写したもうがゆえに地が震うておるのでございます」  これを聞いて、法皇はますます性空に対する信心を深めたのである。(『今昔物語』一二の三四、『古今著聞集』一一) [#改ページ]   |叡《えい》 |実《じつ》  世の中には、果たして高潔な超俗の人なのか下劣な俗物なのかよく分からないが、ともかくも権力、権威をものともしない気骨を示し、しかもそれでいて気負ったところが少しもなく、実に平然、平にして凡たる|風情《ふぜい》を身につけている人がいる。ここで取り挙げる叡実もそういう人で、いささか禅機すらも感じさせ、世人の深い感銘を呼んだ。  昔、西の京に|神明《じんみよう》という山寺があったが、そこに叡実という僧が住んでいた。さる天皇の子孫だともいわれるが、確かなことはまったく分かっていない。幼少のときに両親から離れ、長い間仏教を修め、日夜に法華経を|読誦《どくじゆ》した。慈悲の心の深い人で、苦しんでいる人を見ると放っておけない性格であった。  叡実は、初めのうちは、京都の西にある|愛宕《あたご》山に住していたが、厳寒のときに、ろくな衣を持っていない同僚を見かけると、衣を脱いで与え、自分は裸でいた。そこでどうしたかというと、大きな桶に木の葉をいっぱい入れて、夜になるとその中にすっぽりと埋まって寝た。ときどき、食べるものがなくなってしまうこともあったが、そのときには|竈《かまど》の土を掻き取って何とか食いつないだ。不思議なことに、この竈の土は非常に美味であったという。また、心を統一して経を読誦していると、|白象《びやくぞう》がやってくるのがほのかに見えるということもあった。叡実が経を読誦する声はたいへんありがたい響きをもっていたため、これを聞く人はみな涙を流して喜んだものである。このような修行の生活を長らく送った後、神明に移り住んだのである。  さてその頃、閑院の太政大臣という人がいて、名を藤原|公季《きんすえ》といった。九条殿(藤原道長の叔父にあたる藤原|師輔《もろすけ》)の第十二番目の息子で、母親は醍醐天皇の皇女(康子内親王)であった。  この人が、従三位左中将だったときのことである。夏の頃に、「おこり」(マラリヤのように、熱が断続的に出る病気)に冒され、容態が悪くなる一方であった。あちらこちらの霊験あらたかな祈祷所に籠り、高僧たちに祈祷してもらったが、いっこうによくなる気配がない。  そこで、この叡実がありがたい法華の持者であるといううわさを耳にするや、この人に祈ってもらおうと、神明まで出向いていったのであるが、|賀耶《かや》河(紙屋川?)のあたりまで来たときに、またまた発作が起きた。しかし、せっかく神明まであと一息の所まで来たのであるから、今さら引き返すこともなかろうというわけで、ともかくも神明まで歩を進め、叡実の房の軒下まで車を曳き寄せた。  用件を述べると、|持経者《じきようじや》叡実はこう言った。 「拙僧はひどい風邪をひき申したゆえ、本来僧の身で食すべきでない|蒜《おおひる》(ニンニクの類)を食しておりましてな、いささか口が臭うござる。とてもではござらぬが、やんごとなき御仁にお会い申すわけにはまいらぬ」  しかし、 「今はただ、お聖人をお頼み申し上げるばかりでございます。ここまで来て、引き返すつもりはございません」 との、たっての願いである。やむなく叡実は、 「それならばお入り下され」 と言って、房の中をそれなりにしつらえてから、公季一行を中に招き入れた。公季は、人に抱きかかえられながら中に入り、横になった。叡実は、水浴みをして、しばらくしてから姿を現わした。背が高く、痩せ細っている様が、いかにもありがたそうに見えた。  叡実は、 「いや、ひどい風邪で、医師の言いつけもあって蒜を食しており申すのじゃが、わざわざのお越しとあっては引っ込んでおるわけにもまいり申さぬ。また、穢らわしい蒜を食しておるとはいえ、法華経は浄、不浄を問わぬものでありますゆえ、これを読誦いたしても罰は当たりますまい」 と言い、数珠をじゃらじゃらと押しもみながら病人の近くに寄っていったが、その風情は、いかにも頼もしく、ありがたいもののように見えた。叡実は、公季の首に手を当て、膝に枕をあてがわせてから、法華経の「寿量品」を、この世にこれほどありがたい声があろうかというような調子で読誦し始めた。  やがて、読誦している叡実の目から、涙があふれ出し、それが、病のために熱くなった公季の胸の上に落ちると、その一点から急速に冷え始め、叡実が「寿量品」を三回ほど読誦したところで熱がおさまった。気分もぐっとよくなったので、公季は、かえすがえす礼を述べ、来世までの縁を約束して帰途についた。その後、公季は、熱の発作に悩まされることがなくなった。  このことがあってから、叡実の名は世に鳴り響くようになった。(『今昔物語』一二の三五)  さて、あるとき、円融天皇が、堀川の院において重い病気にかかられたことがある。|物《もの》の|怪《け》のたたりであるということなので、|験力《げんりき》があるとされる僧たちを数多く集めて加持祈祷を行なわせたが、すこしも効き目が現われない。そこで、ある|上達部《かんだちべ》が、天皇にこう奏上した。 「神明という山寺に、叡実という僧が住んでおりますが、この僧は、長年にわたって法華経を読誦しており、それに専心しております。ここは一つ、この僧を召して祈祷させてはいかがでございましょうか」  これに対して、別の上達部は、 「かの僧は道心が深く、俗人の常識というものを超えておりますから、もしも心のままにふるまいますと、何かと見苦しいことをしでかさぬともかぎりません。あまり適当な人物とは思えませんが」 と、慎重な意見を述べた。しかし、効き目さえあれば他はどうでもよいではないかという仰せなので、|蔵人《くらんど》の何某という人が使者として遣わされることになった。  蔵人は、|宣旨《せんじ》をうけたまわり、神明に赴き、叡実に会い、用件を伝えた。叡実は、 「拙僧は出家の身でござるゆえ、本来ならば参上いたす筋ではござらん。しかし、王地にいながら、宣旨にそむくというわけにもまいりますまい。参上いたしましょう」 と言って立ち上がったので、これは絶対に断られると覚悟していた蔵人は、叡実の意外な応対にいたく喜び、さっそく同じ車に乗ってもらった。  ところが、東の大宮を下っていく途中、|土御門《つちみかど》の大路の馬場の馬出しのところに、|薦《こも》を一枚引きめぐらして、病人が臥せっているのに行き会った。よく見ると女である。髪は乱れ、汚ならしいものを腰のあたりまで引き懸けている。どうやら、|流行《はやり》の病に冒されているようである。叡実はこのありさまを見て、蔵人に言った。 「内裏には、今この叡実が参らずとも、尊い高僧たちがたくさんおいででござろうゆえ、何の問題もござるまい。しかし、この病人には、看病してくれる人が誰もおらぬようじゃ。まずは、この病人に物を食べさせるのが先決、それから、夕方頃に参上いたそう。貴殿は、先に行って、叡実がおっつけ参る由、ご奏上願いたい」  蔵人があわてて、 「いや、それではおおいに困り申す。宣旨に従って参上なさるというのであれば、このような病人のために時を移すなど、とんでもござりませぬ」 と言って止めるのを、 「まあ、まあ、よいではござらぬか」 と受け流し、車の前の方からさっと飛び下りた。  蔵人は、何とも気違い沙汰の坊主だと思ったが、捕えてどうこうするというわけにもいかず、しかたなく牛を車から引き離し、しばらく待機することにした。  さてどうするのかと蔵人が見ていると、叡実は、かくも汚ならしいところに臥している見るもおぞましい病人のところに、いかにも親しげに近づいていって、胸のあたりをまさぐり、頭に手を当て、病人に事情を尋ねた。  この病人が言うには、このところ流行の病にかかっているのであるが、やっかいがられ、とうとうこうして捨てられてしまったのであるという。この話を聞いて叡実は、あたかも自分の父母が病んでいるかのように嘆き悲しんで問うた。 「それでは、何も物を食べてはおられぬのじゃな。食べたい物があれば何なりと申されよ」 「魚をおかずにしてご飯を食べたい。ついでにお湯も欲しい。だけど、食べさせてくれる人が誰もいなくて……」  そこで叡実は、下に着けている衣を脱ぎ、これを近くにいた子供(あるいは叡実の供の小僧)に渡し、店に魚を買いにやらせた。また、知人のもとに、飯と湯をもらいにやらせた。しばらくして、飯と湯と、干した鯛が届けられた。叡実は、みずから鯛を小さく切り調え、箸で飯を病人の口に含ませ、湯を少し注いで飲みこませた。さすがに食べたいと言うだけのことはあって、病人らしくもなくよく食べた。残りは|檜《ひのき》の薄板を曲げて作った食器に入れ、湯呑に湯を入れて病人の枕許に置き、病気平癒に霊験があるとされる法華経の「|薬王品《やくおうぼん》」一品を読誦して聞かせてやった。  こうしてようやく、叡実は蔵人を呼び、 「さて、それでは参上いたしましょう」 と告げ、再び車に乗って内裏に赴いた。天皇の御前に召され、経を読誦されたいとの仰せにより、法華経の第一巻の冒頭から読み始めた。しばらくすると、天皇にとりついていた物の怪が外に出てきて、たちまち病気はおさまった。喜んだ天皇は、叡実をしかるべき|僧綱《そうごう》(僧の官職)に任命しようとしたが、叡実はこれを固辞し、これにて御免とばかり、逃げるように退散した。(『今昔物語』一二の三五)  今の話は、叡実の反骨ぶりをよく示しており、なかなか痛快である。まさに出家の|鑑《かがみ》、超俗の模範ともいってしかるべきなのであるが、どうも叡実という人物は、それほど単純明快ではなかったとみえ、どう解釈すればよいのやら、いささか判断に迷う次のような話も伝えられている。  その後、いったい何があったのかは分からないが、叡実は鎮西に下り、どういうわけか、田畑を作らせる地主となり、絹や米などをしこたま蓄えてけっこうな資産家になった。(これは、出家が生産に関わったり、富を蓄積したりすることを禁ずる、釈尊以来の戒律を公然と犯す所行であった。しかもまずいことに、わが国では、出家僧の行状は、世俗の権力によってチェックされるという体制になっていた。)  そこで、その国を統治していた国司は、叡実を|誹謗《ひぼう》し、 「この者は、破戒|無慙《むざん》の法師である。よって、今後、世俗の生活者に近寄ることはあいならぬ」 と言って、叡実が所有していた財産をすべて没収した。  ところが、それからしばらくして、国司の妻が重い病にかかってしまった。そのとき、国司の代理を務める|目代《もくだい》が、国司にこう進言した。 「あの叡実殿にお願いして、試みに法華経を読誦していただいてはいかがでありましょうか」  これを聞いた国司の怒るまいことか、 「あのような法師を召すなど、いかなることがあっても許さん」 と、えらい剣幕であったが、目代の熱心な説得に押されて、ついに、 「わしは知らぬ、おぬしの好きなように計らえ」 と、しぶしぶ叡実を迎えることに同意した。  そこで、さっそく目代は叡実を迎え入れ、国司の館で法華経を読誦してもらった。叡実が法華経の一品もまだ読誦し終えないうちに、これは不思議、護法童子が忽然と現われ、病人である国司の妻にとりつき、これを屏風越しに投げ出し、叡実の目の前で百回となく二百回となく打ちすえると、また屏風の中に投げ入れた。ここに病気はたちまちにして平癒し、苦しみが嘘のように消え去った。  国司は手を合わせて叡実を拝み、先の処分を深く悔い、没収した財産をすべて叡実に返却しようとしたが、またどういうわけか、叡実はこれをまったく受け取らなかった。(『大日本国法華経験記』中の六六、『今昔物語』一二の三五) 『今昔物語』は、最後をこう結んでいる。すなわち、 [#ここから1字下げ] 「持経者叡実は、いよいよ臨終を迎えるに当たり、あらかじめそのことを察知して浄らかな場所に籠り、断食し、法華経を読誦して、合掌しながら入滅した。およそ、経文を見ずに、法華経を暗唱で読誦することは、この叡実を始めとすると語り伝えられている」 [#ここで字下げ終わり] と。  抜群の法華の持経者は、いかなる不都合なことがあろうとも、まったく問題とならないということなのであろうが、『大日本国法華経験記』の作者は、これとはいささか見解を異にする。同書の末尾には、珍しく作者の注釈的意見が付記されている。それにはこうある。 [#ここから1字下げ] 「ある人によれば、叡実は、最後には悪縁に遭遇してよからぬ願を|発《おこ》した、云々という。また別の人によれば、よからぬ心を起こしたことはまったくない、最初はよからぬ心を起こしたように見えるけれども、後には、|発露懺悔《ほつろさんげ》して(みずからの過ちを洗いざらい告白して)、深く道心を発し、法華経を読誦しながら入滅した、云々という」 [#ここで字下げ終わり] 『大日本国法華経験記』の作者は、どうも潔癖漢だったようで、僧にあるまじき振舞いに及んだ人物を高く評価することはなかった。叡実の行状は、蒜の件といい蓄財の件といい、尋常ならば唾棄すべき振舞いであったはずであるが、にもかかわらず叡実を高く評価せずにはいられなかったというのは、それだけ叡実がこの作者の心を捉えて離さなかったことを意味している。ただ、叡実にまつわる不明朗な噂はさすがに気になったに相違なく、それでこのような付記を設ける次第になったのだと思われる。  叡実の話を現在の僧界になぞらえて展開すれば、これはもうきりがないくらい展開できるであろうが、いささか生臭い話になることは間違いない。しかしともかく、そして、好き嫌いは当然あるとして、何がどうなのかしかとは分からないなりに、叡実がわれわれの好奇心をあおってやまない人物であることは疑いないところではなかろうか。 [#改ページ]   |行《ぎよう》 |巡《じゆん》  繰り返しになるが、わが国の仏教は、よく言えば在家主義であるが、悪く言えば俗世間依存主義、つまり、世俗の権力の統制のもとに育ち、そのことを基本的に甘受してきたといったていの仏教であった。もちろん、出家とは、出世間とは、そもそも僧とは、ということを正面に据えて真剣勝負を挑んだ人びとはたくさんいた。そして、そういう人びとが往々にしてぶち当たったのが、「王地」「王土」という壁であった。 「王地」というのは、特に奈良、平安時代に培われた考えである。つまり、律令制にあっては、原則として個人が私有する土地はない。建前としては、全国土は国有地であり、したがって天皇の領地である。男であろうが女であろうが、身分が高かろうが低かろうが、日本の国土に住む者は、すべて天皇の|大御心《おおみこころ》によって住まわせていただいているのであるというのが、この「王地」ということばに盛りこまれた意味である。  前項の|叡実《えいじつ》も、本心がどこにあったのかは別として、表向きには、「王地にいながら」という理由で、ともかくも|宣旨《せんじ》に従っている。「王地」というのが、当時、格段の威力をもっていたことは間違いない。  ところがここに、この「王地」なるものを手玉に取った痛快な僧がいる。行巡というのがその人であり、はなはだ短い話ながら、次のような逸話が伝えられている。  行巡の出自については何も分かっていないが、|摂津《せつつ》の国の|箕面《みのお》の|勝尾《かつお》寺に住し、その第六代目の|座主《ざす》であった。  貞観年間、清和天皇が重い病気にかかられたことがある。そのとき、病気平癒の加持祈祷を修してもらうべき高僧が求められた。人びとの評判によって白羽の矢を立てられたのがこの行巡であり、勅令を伝え、行巡を内裏に参上させる使者として選ばれたのが|藤金吾《とうのきんご》という人物である。  ところが、行巡は内裏に参上することを断固として拒否した。そこで藤金吾は勢いこんでこう語った。 「この国土の続くかぎり、王(天皇)の臣下でないものはおらぬはず。師は俗世間をお捨てになられたとはいえ、王地に住まわれていることは疑いありませぬ。でありますから、ただちにここをお立ちになって、帝の恩に報ずるべきではないかと存ずる次第であります」  そこで行巡は、持っていた杖をまっすぐ地面に立てた。どうするのかと見ていると、その上にむしろを乗せ、軽々とそこに飛び乗り、悠然と坐して言った。 「拙僧はかくのごとく、王地に坐ってはおらぬ」 [#挿絵(img/fig5.jpg)]  藤金吾も負けてはいない。 「さりながら、杖の下は王土ではござりませぬか」  すると行巡は、今度は、つつっと空中に浮き上がり、そこにじっと留まった。さすがの藤金吾も、これには仰天し、大あわてで戻り、内裏にこのことを奏上した。  行巡を待つこと一昼夜にして、この藤金吾の奏上を聞いた帝は、ますます行巡への思いが募った。そこで、改めて勅を発し、内裏に参上せずとも、せめて陰ながら加護をたまわりたいと行巡に申し入れた。そこで行巡は、法衣を一着、数珠を一つ献上したのであるが、その甲斐あって、帝の病気はたちまちにして平癒した。  その後、帝は位を退いてから勝尾寺に行幸あったが、そのときにはすでに行巡はこの世の人ではなかった。(『元亨釈書』感進四の二、『扶桑隠逸伝』上) 『扶桑隠逸伝』の作者である|深草《ふかくさ》の|元政《げんせい》上人の賛にはこうある。 [#ここから1字下げ] 「釈尊は、|成道《じようどう》の後、国に帰られたことがあるが、父親である王がこれを迎えて拝み奉ったとき、釈尊はさっと空中に上られた。……今、行巡座主も、勅を受けて|虚空《こくう》に上られた。釈尊がそのようにされたのは、父親から礼を受けるのを避けるためであった。……行巡座主がそのようにされたのは、内裏とか朝廷を避けるためであった。すべて、しかるべきわけがあってのことであり、ただいたずらに、神通を開陳しようとして、そのような挙に出られたのではないのである。……」 [#ここで字下げ終わり]  まことにその通りで、ことさらこれに付け加えるべきことはない。 [#改ページ]   |増《ぞう》 |賀《が》  わが国に奇行の人多しといえども、ここに登場する増賀ほど数多くの、しかも痛快無比の逸話の持ち主はいないであろう。まさに奇僧中の奇僧というべき人である。下手な解説など、かえって邪魔であろうかと思うので、解説はほどほどにしながら、ともかくも逸話を次々と追いかけていくことにしたい。  増賀は、延喜十七年(九一七年)に、橘|恒平《つねひら》の子として京都に生まれた。後の驚くべき俊敏さと奇僧ぶりから推して、|栴檀《せんだん》は双葉より芳し、子供のときから尋常ではなかったと考えられたのかもしれないが、次のような話が伝えられている。  増賀が生まれてからまだあまり日数も経っていない頃、一家は、ゆえあって坂東に下った。一行は、夜明けにはまだ遠い時刻に、真暗やみの中を出発した。そのとき、馬の背に|輿《こし》のようなものをのせ、その上に、赤児の増賀を抱いた乳母が乗っていたのであるが、なにせこのように早い時刻からの出発である。あわただしい旅仕度の疲れも手伝って、乳母は不覚にも馬の上で眠りこんでしまった。赤児は馬からころげ落ちてしまったが、誰も気がつかない。  数十町も過ぎたころ、乳母はようやく目を覚ました。はっとして赤児を捜したが、見つかるはずがない。自分が居眠りしている間に馬から落ちてしまったのであるから、どこで落ちたかはまったく分からない。両親は気が動転し、大きな声で泣き叫びながらも、しかし、それはそれで、ふだんから世の中のことについての覚悟はあったということなのであろうか、気を取り直してこのように言ったという。 「もうこの時刻に至るまでに、この道は、たくさんの人びとが牛や馬に乗って通ったに相違ない。人の往来もずいぶんあったであろう。生まれてまもない子であるから、もはやいかように考えても、踏み殺されてすでに命はないと思わねばならぬ。|不憫《ふびん》ではあるがいたしかたのないことじゃ。とは申せ、せめてわが子のなきがらを見るためにでも、戻って捜してみることにいたそう」  道の隅々に目をくばりながら、数十町ばかり引き返してみると、何とうれしいことに、赤児は無事であった。狭い道の泥のなかにくぼんだ石があって、その石のくぼみの中にいたのである。それも、空の方を向いて、にこにこ笑いながら遊んでいたのである。しかも驚いたことに、赤児は、このような所にいても泥や水にまみれることなく、傷一つ負っていなかったという。両親は言うに及ばず、乳母も、その他一行の人びとすべても、その喜びたるやひとかたならず、代わる代わる赤児を抱きしめては、異口同音に、希有なることよ、奇跡よと、いつまでも称嘆してやまなかった。  その夜、両親は不思議な夢を見た。  泥の上に美しく飾りつけられた宝床があり、微妙な色合の天衣が敷かれ、その上にこの赤児がいる。端正な姿と顔立ちをした四人の天の童子が、その床の四隅に立って、合掌しながらこう唱えた。 [#ここから2字下げ] |仏口所生子《ぶつくしよしようし》(仏の口から生まれた御子です) |是故我守護《ぜこがしゆご》(だから、自分たちが守護いたします) [#ここで字下げ終わり]  ここで夢は覚めた。  その後は、両親は、この子供は只者ではないと知って、以前にもまして深く愛しみ育てるようになった。(『大日本国法華経験記』下の八二、『今昔物語』一二の三三)  民話の「たにし長者」のたにし息子ほどではないが、次の話のように、増賀は口が遅かったという。たにし息子は龍神様の申し子だということになっているが、今の話からすれば、増賀は仏様の申し子であるということになる。神仏の申し子は口が遅いという考えは、かなり昔からあったものとみえる。  増賀は口が遅く、しゃべれるようになったのは四歳を過ぎてからであった。ところが、父母に向かって語ったその最初のことばというのがものすごい。 「われは、比叡山に上り、法華経を読み、一乗の道を習得して、聖人たちの跡を継ごうと思う」 と、こう語ったきり、ぴたりと口を閉ざしてしまったのである。  父母は腰がぬけるぐらいに驚いた。 「奇怪なことじゃ。こんな小さな子供が、どうしてこんなことを語るのであろうか。もしかして、なにか善からぬ鬼神がとりつき、この子の心を|苛《さいな》んで、それでこのようなことをしゃべらせておるのであろうか」 と、大きな不安に襲われ、嘆き悲しんだ。  その夜、母親が夢を見た。  夢の中で、母親は子供を抱いてお乳を飲ませていた。するとそのとき、子供が突然成長しはじめ、たちまち、三十歳あまりの僧侶になり、手に巻物のお経を取った。  そのかたわらに、いかにも貴げな僧侶がいて、このように告げた。 「驚き怪しんではならぬ。ゆめゆめ疑ってはならぬ。この子は、|宿世《すくせ》からの因縁があって、この世で聖人になる定めになっているのである」  ここで夢は覚めた。  父母は、この子が、将来聖人になることを確信して、おおいに喜んだという。(『大日本国法華経験記』下の八二、『今昔物語』一二の三三)  増賀は、十歳という歳で、ついに比叡山に上り、後の天台座主で大僧正の|慈慧《じえ》(良源)の弟子になった。慈慧は、浄土教の発展に大きな貢献をした高僧であり、|元三《がんざん》大師と呼ばれて、今日でも|厄除《やくよけ》大師として人気がある。この人の弟子になったということは、少なくとも初めのうちは、増賀にとって幸いだったかもしれない。しかし、その幸いが、やがて増賀の悩みの種になるのであるから、世の中は分からないものである。  増賀は、法華経を熱心に習い受け、顕教と密教の正しい教えに親しく接し、学問の|研鑽《けんさん》に励んだ。天台宗の行の中心である|止観《しかん》(坐禅のようなもの)に習熟し、法華経の精髄である一乗の教えに深い理解を示した。問答を行なわせても、余人の追随をゆるさぬ才覚を発揮し、類まれな優秀な学問僧として、山中の名声は高まる一方だった。  しかも、そうした学問と修行の合間に、法華経全巻の|読誦《どくじゆ》と、日に三回の|懺悔《さんげ》の法の実習を、毎日怠りなく行なった。こういう次第であったから、師の慈慧も、増賀を自分のもとから手放すことはできないと思い定めていた。  ところが、そうした間に、増賀には、ひたすら仏の道をまっとうし、この世の名声とか利益とかから徹底的に逃れようとする心が芽生え、堅固になり、ひたすら|後世《ごせ》のことに思いをいたすようになった。  山中のみならず、京の市中にも、たいへんな学問僧が現われたという評判が立ち、|冷泉《れいぜい》天皇から、皇室と国家を守る護持僧になってほしいとの誘いがあったりしたが、増賀にしてみれば迷惑千万のことであった。  増賀は、その名声からくる煩わしさに悩まされた。 「このままでは志を遂げることはとうていかなわない。この山を去り、うわさに聞く霊場、|多武《とうの》|峰《みね》に逃れ、山に籠り、誰にも煩わされることなく心静かに修行を積み、来世の極楽往生だけを心に願う日々を送りたいものだ」  こう思い、師の慈慧に暇を請うたが許されなかった。また、まわりの学問僧たちも、無理やり増賀を押しとどめた。落胆し、せっぱつまった増賀は、ここで思い切った行動に出ることにした。それは、狂気を装うことであった。  比叡山には、僧侶を接待し、食べものなどを供養のために分配する所があった。もっとも、位の高い僧侶がそこに出向くことはなく、下っぱを遣わして受け取らせるのが慣わしであった。そこに、名声高い増賀が、みずから黒くよごれた|折櫃《おりひつ》(|檜《ひのき》の薄板を曲げて作ったもので、菓子や|肴《さかな》を容れるのに用いる)を引っさげてやってきたのである。  供養の品物を引き渡す係の者などは、このありさまを見て奇怪に思い、増賀に問いただした。 「何と、こちらさまは、このところ評判の高い、あの貴い学問僧さまではございませんか。そのようなお方が、みずからこのような所においでになって、じかに供物をもらい受けられるなど、とんでもないことでございます」  こう言って、誰か他の人に供物を運ばせようとした。  すると、増賀は、 「いや、自分でもらい受けたいのだ」 と言って、あくまでも引かない。 「よくは分からぬが、何かお考えがあってのことであろう。それならば構わぬ、供物を差し上げよ」 と、係の者は、供物を増賀に引き渡させた。  ところが、もらった供物を自分の房に持って帰るかと思うと、そうではない。麓からここまで供物を運び上げる人夫たちが使う道の方にとことこと歩いていって、そこにたむろしている人夫たちの間に割りこんで坐りこみ、そこらの樹の枝を折って|箸《はし》とし、むしゃむしゃと食べ始めたのである。  そればかりではない、まわりにいる人夫たちにも分け与え、食べさせたので、人びとは、あまりのことに呆れるばかりであった。 「さっきからどうも変だとは思っていたが、これはどう見てもただごとではない。あのお坊さんは気が違っているにちがいない」  こう言って、人びとは増賀を敬遠し、気味悪がった。  増賀は、毎日毎日、こうした類の狂気の振舞いを人びとに見せつけた。そのため、かつて増賀と親交を結び、また増賀を尊敬してやまなかった学問僧たちも、いっさい口を利かず、近づこうともしなかった。  師の慈慧も、学問僧たちから、増賀のうとましい振舞いを知らされ、 「このようなことになってしまった者を、今さらここに押し留めてもいたしかたあるまい」 と、|匙《さじ》を投げた。  この話を洩れ聞いた増賀は、 「してやったり、ついに思いがかなったのだ」 と、内心ほくそ笑み、比叡山を出て、多武峰に赴いた。(『大日本国法華経験記』下の八二、『今昔物語』一二の三三)  これとかなり類似した話も伝えられている。今のは人夫たちと食事をともにしたという話であるが、次の話は、乞食といっしょに食べものを拾いあさったというものである。  増賀は、満足がいくだけの道心が自分に生じないことばかりを悩み抜き、|根本中堂《こんぽんちゆうどう》への千夜詣でに踏み切った。これは、根本中堂に千夜続けてお参りし、その度ごとに仏に千回の礼拝を行なうというなかなかの苦行である。この千夜詣でによって、何とかして道心を得ようとしたのである。  初めのうち、 礼拝を行なうときに声を出すことはなかったが、 六、 七百夜が過ぎた頃から、 「付きたまえ、付きたまえ」 と、忍びやかに声を洩らすようになった。これを聞いた人たちは、こいつはいったい何をぶつぶつ祈っておるのか、天狗付きたまえとでも言っておるのじゃなかろうかなどと、増賀を馬鹿にしたような陰口をたたいていた。しかし、千夜目が近くなるにつれて、その忍び声が、 「道心付きたまえ」 と、はっきり聞き取れるようになるに及んで、これはたいしたものだと、人びとはひとしきり感嘆の声を挙げた。  こうして、ついに千夜が満ちた後、苦難の甲斐があったのか、世を|厭《いと》う心がたいへん深くなった。そして、何とかしてわが身を用なきものにしてしまおうと考え、そのきっかけを待っていたところ、|内論義《ないろんぎ》という行事に参加することになった。  この内論義というのは、正月に、内裏において、高僧たちを召して天皇の御前で行なわれる|御斎会《ごさいえ》という儀式の最後の日に、経典の内容について、その高僧たちに議論を戦わさせるという、年中行事の一つであった。  だいたい、議論を戦わせるといっても、あらかじめ筋書が決まっている形式的なものであり、すぐに終わってしまう。そして、いつもの習いで、内論義が終わると、庭に乞食が集められ、宴席で貴人たちが食べ散らかした残りものがばらまかれた。乞食たちは、投げ捨てられた食べものを、われ先にとばかり駆けずり回りながら拾い食いした。するとそのとき突然、居並ぶ高僧たちの中から増賀|禅師《ぜんじ》が走り出て、その乞食の群れの中に飛びこみ、残飯を食いあさり始めた。  これを見て、高僧たちをはじめ、人びとはびっくり仰天、この禅師は物に狂ったかと大騒ぎになった。ところが増賀は、 「拙僧が物に狂っているのではござらぬわ。物に狂っておいでなのはそこにおわす貴僧たちではござらぬか」 と、少しも|狼狽《ろうばい》することなく言い放った。これには、さしもの高僧たちも開いた口がふさがらず、何とも呆れ果てたやつだと顔をそむけるばかりであった。してやったり、日頃の計略は見事に図に当たり、これを契機に増賀は表の世界から引き籠ることができた。(『発心集』一の五)  増賀が狂気の振舞いをして比叡山を捨て去った経緯については、もう一つ有名な話がある。『撰集抄』の冒頭に配せられている次の話がそれである。  あるとき増賀は、道心がややもすればぐらつくのを気に病んで、ただ一人、伊勢の大神宮に参詣し、一心に神に祈念した。そのとき、増賀は夢の中で、 「道心を起こそうというのならば、わが身をわが身と思ってはならない」 という、神の|元現《じげん》を受けた。はっと夢からさめて増賀は思った。 「この元現は、|名利《みようり》を捨てよというお告げに違いない。ならば捨てようではないか」  増賀は、着ていた小袖や衣を脱いで、すべて乞食にくれてやり、身に一糸もまとわず、素っ裸のまま帰途についた。道行く人びとは、これを見て何事かと思い、 「可哀想に、きっと、気が触れているのだろう。見た感じ、ずいぶん立派な人のようなのだが、いやはやどうにもこうにも」 と、増賀のまわりに集まってささやきあったが、増賀は少しも気にとめるふうではなかった。道々、食べものを乞いながら、四日目にしてようやく比叡山に上り、慈慧のもとに帰ってきた。あの秀才の増賀殿が気狂いになってしまったそうなと、驚いて見にくる仲間もいれば、とてもではないが見るに堪えないといって見にこない人もいて、ともかくも山内は大騒ぎであった。  この狂態を見過ごすわけにもいかず、師の慈慧は、増賀をひそかに自室に招き、 「貴僧が名利を捨てられたということはよく存じておる。ただし、このような振舞いにまで及ぶというのはいかがなものか。すぐにも威儀を正し、その上で名利を離れなされ」 と|諫《いさ》めたが、それを聞き入れるような増賀ではない。 「おことばながら、名利を跡かたも残さず捨ててしまいましたならば、そのときにはそのようにいたしましょう」 と言い放つや、 「あら楽しの身や、うおお、うおお」 と叫びながら走り去ってしまった。慈慧も、もはやこうなってはいたしかたないと嘆じ、みずから門の外まで出て、増賀の姿が見えなくなるまでずっと見送り、そぞろに涙を流したという。(『撰集抄』一の一)  増賀の狂気の振舞いは、比叡山中に限られたわけではない。次は、極めつけの抱腹絶倒の逸話である。  一条天皇の母君でおわします三条|大后宮《おおきさいのみや》は、尼になろうとして、受戒の式を執り行なう戒師の役を、名僧の誉れ高い増賀に務めてもらうことに決め、使いの者を遣わされた。  弟子たちは気が気ではなかった。何しろ、師の増賀は、名利を徹底的に厭う人であり、このような話を耳にすると、怒り狂って使いの人を殴りつけないともかぎらない。そうなっては一大事だと、このように思ったわけである。  ところが、増賀の返事は、まことにもって意外、 「たいへんけっこうなことです。ほかならぬこの増賀が、確かに宮を尼になしたてまつるでありましょう」 というものであった。  このように、えらくあっさりと事を引き受け、さっさと三条の宮に参上していったものであるから、弟子たちが、 「こんな珍しいことはあったものではない」 と、互いに不思議がったのも無理はない。  こうして上人が参上すると、宮はたいへんなお喜びようで、さっそくお召し入れになった。宮が尼になられるというので、内裏より使者が訪れたり、|公卿《くぎよう》や僧侶もたくさん集まったりで、 たいそう賑やかである。 その中にいて、 この上人は、 恐ろしいほど眼光鋭く、いかにも貴げな|風情《ふぜい》であったが、どことなく体の調子が思わしくなさそうな様子でもあった。  さていよいよ出家の儀式が始まり、上人は召されて|御几帳《みきちよう》のもとに進み出た。出家の作法に従い、めでたくも長く伸びた|御髪《みぐし》をかき出し、上人に切ってもらうという段になった。|御簾《みす》の中でこの成り行きを見ていた女房たちは、万感胸に迫り、泣きさざめいた。  滞りなく宮の髪を切り終え、御簾の内から出ようというとき、上人は、突如、大きな声でこのようなことを口走った。 「他にいくらでも坊主はおるであろうに、わざわざこの増賀をお召しとは、これはいったいいかなることでござるのか、どうにも納得がいかんのじゃが。ひょっとして、増賀のあれは大きい、なんぞとお聞きになられたということですかな。まあ、確かに人のものよりは大きゅうござるが、残念じゃのう、今は柔らかい|練絹《ねりぎぬ》のように、ふにゃふにゃになってしもうたわい」  御簾の中に侍っている女房たち、公卿たち、殿上人たち、僧侶たちは、これを聞いてあまりのことに呆れ果て、目も口も開きっぱなし、三条の宮にいたっては、茫然自失といったていであった。貴人たちの集まりであるのに、その貴さもみな失せて、おのおの全身より|脂汗《あぶらあせ》を流し、われにもあらぬ心地であった。  さて、上人は、この騒ぎを尻目にいざ退出と、袖をかき合わせながら、 「年をとりましてな、風邪が長びいて少しもよくなりませんのじゃ。かえって悪くなるばかりで、ついに腹にきましてな、このところ下痢がひどいのでござるよ。お断りしようとは思いながら、何しろわざわざのお召しとあっては、そういうわけにもまいらんでな、それで心構えだけはしてきたのじゃが、もはや堪えがたいところまできておってのう、されば急ぎ退出いたしますのじゃ」 と言って退出しざまに、すぐそこの西の|対《たい》の|簀子《すのこ》にしゃがみこみ、尻をまくり、水桶の口から水を流すように、ひり散らし始めた。そのひる音の大きさたるやすさまじく、御簾の中の御前の耳にも届くほどであった。  若い殿上人たちは、笑いころげて大騒ぎ、僧侶たちは、腹立たしいことかぎりなく、 「こんな気狂いをお召しになったとは、どういうことでございますか」 と、宮を非難申し上げたということである。(『宇治拾遺物語』一二の七)  これで驚いているわけにはいかない。増賀は、師匠の慈慧にも、軽快なフットワークで強烈なパンチを食らわせているのである。  師の慈慧が大僧正に任命された。慈慧は、そのことを賀謝するために、宮中に|参内《さんだい》した。これに従うものはなはだ多く、盛大な行列になった。その行列の|先駆《さきがけ》の中に、突然、|干鮭《からさけ》を剣として腰にぶら下げ、痩せこけた牝牛にまたがった増賀が紛れこんできた。  威風堂々の行列は、この奇体な|闖入者《ちんにゆうしや》のために、目茶苦茶になってしまった。びっくりしたお供の人びとが、これはいかんと、どなり散らしながらこれをいったんは追いやったが、増賀は、またぞろ行列に付いてきて、今度は大きな声をふりしぼってこう言った。 「わが輩を除いて、大僧正様の御車の先駆が務まる御仁が、ほかに誰かいるとでも思ってか!」  お供の人びとも、これには笑いころげずにはいられなかった。(『続本朝往生伝』一二、『発心集』一の五、『扶桑隠逸伝』中) [#挿絵(img/fig6.jpg)]  増賀は、世俗化していた当時の仏教界の中枢に、単なることばではなく、その奇抜な行動によって激越なパンチを食らわせ、名利を捨て、世俗の権力から離れることに徹した。この話の中の「わが輩を除いて、大僧正様の御車の先駆が務まる御仁が、ほかに誰かいるとでも思ってか!」ということばは、「権勢に|媚《こ》びへつらった俗物の大僧正のこのくだらない行列の先駆には、馬鹿ばかしい限りの恰好をしたわが輩のような者こそがお似合いなのだ」と言って、師の慈慧を痛烈に皮肉ったものである。エセ仏教とエセ坊主にうんざりしていた当時の、そして後世の人びとが、増賀に拍手喝采を送ったのも、十分にうなずける道理である。  ただ、『発心集』(一の五)によれば、 「われこそが先駆を務めよう」 と増賀が叫ぶ声が、師の慈慧大僧正の耳には、 「まことに悲しむべきことじゃ。わが師は悪道に入ろうとされておいでじゃ」 というように聞こえた。そこで大僧正は、車の中から、 「これも|利生《りしよう》(衆生を救うこと)のためなのじゃ」 と答えたという。  こういう話を付け加えたのは、『発心集』の作者である鴨長明の、慈慧に対する温情であったのかもしれない。  増賀はラディカリストであった。今日でも、ラディカリストが叫ぶことばは、窮極的な意味においてはしばしば正しい。しかし、この世に曲がりなりにも「生活している」人にとって、ラディカリストのことばを文字通り実行することは、生活破壊に直接つながる。人間、ひいては生きとし生けるものに対して「やさしさ」を持つということは、つまりは窮極的なところを離れて妥協するということにほかならない。ラディカリストは、やさしさを持たない人間である。やさしさにあふれたラディカリストという言い方は、おそらく語義矛盾を犯しているのである。  やさしさを持ったとき、ラディカリストはもはやラディカリストではない。慈慧が真正の俗物であったかどうかは知らないが、その慈慧に救いの解釈を与えた鴨長明は、少なくとも、やさしさのゆえにラディカリストについになれなかった人である、と言うことは可能であろう。  次の逸話は、名利を離れようとして、増賀が異常とも思えるほど神経質に心を砕いたことを伝えている。  ある人が、|法会《ほうえ》のために増賀を請い、招いた。増賀は、招きに応じて行く道すがら、今日の説法でどのようなことを話せばよいのかを考えていたが、はっとして、心の中で驚き、恐れた。 「良い説法をするとかしないとかということは、名声を高めるかどうかということに関わっている。良い説法をしたいという心は、名声を望む|貪欲《とんよく》の心に通ずる。今日わが輩を招いてくれた人との縁は、必ずや魔縁に違いない。危うし、危うし」  増賀は、法会の願主の気に障ることをあえてしでかし、大喧嘩をしたあげく、説法をせずに帰途についた。(『続本朝往生伝』一二、『発心集』一の五)  増賀は、応和三年(九六三年)に多武峰に移った。多武峰には護国院|妙楽《みようらく》寺という寺があった。これは、藤原|鎌足《かまたり》の息子の|定慧《じようえ》が父の廟所として開いたもので、もともとは法相宗の寺であったが、増賀の頃から天台宗に属するようになり、比叡山延暦寺の別院とされた。しかし、明治時代になって神仏分離の波をもろに受け、寺院としては廃絶され、今は|談山《だんざん》神社ということになっている。  増賀は、この由緒ある多武峰に移ったとはいえ、山上にいてまたまた名利に煩わされるのを嫌い、麓の里近い所に住み、多数の優秀な弟子を育てた。その増賀にも、ついに最期の時が訪れた。以下の二話は、そのときの増賀の振舞いを伝える逸話である。  八十歳余になって、それまでこれといった病に悩まされることがなかった増賀も、さすがに老衰は免れがたく、ついに最期を迎えることになった。  増賀は、十数日前にあらかじめ死期をさとり、弟子たちを集めてそのことを告げた。  ふつう、世間では、自分の死期を知れば、恐しさに身の置きどころもなく、悲しみ、悩み、苦しみ、命をひたすら惜しむものである。僧侶といえどもその例外ではない。ところがこの聖人の顔色を見るに、こぼれるばかりの笑みを浮かべ、まさに喜色満面、いかにも嬉しくてしかたがないという風情で、かえって弟子たちの方が、心痛のために浮かない顔をしていた。  弟子たちを前にして、増賀は語った。 「皆々方、喜んで下され。拙僧が長年願望して参ったところが、今ようやくかなえられようとしておる。この迷いと汚れの現世を捨て、西方の極楽浄土に往生することが、もう目の前にやってきたのじゃ。いやはや、これほど嬉しいことはござらぬわい」  こう言って、経を講義し、仏法を明らかにし、さらに|番《つがい》の論議を行なわせて、その優劣を判定した。  また、こういう堅苦しいことばかりでなく、弟子たちに、極楽往生ということにちなんだ和歌を作らせた。そればかりでなく、みずからも和歌を唱えた。 [#ここから2字下げ] みづわさす|八十《やそぢ》あまりの|老《おい》のなみ|海月《くらげ》の骨に逢ふぞ嬉しき [#ここから4字下げ] (「みづわさす」は、「老」を形容することばで、「関節ががくがくして、よろめきがちな」ということを意味するようである。よぼよぼの八十歳余の老人の、寄る年波の波に漂う海月が、およそ逢うことのできないはずの骨にめぐり逢ったように、拙僧は嬉しくてたまらないのである、との意) [#ここで字下げ終わり]  これが増賀の辞世の歌である。(『大日本国法華経験記』下の八二、『今昔物語』一二の三三、『発心集』一の五)  そうこうしているあいだに、いよいよ増賀聖人の入滅の日がやってきた。増賀は、長年たいへん仲のよかった甥の龍門聖人や、居並ぶ弟子たちを前に、このように言った。 「拙僧が死ぬのは今日この日であるが、ちょいと碁盤を取ってきてくれぬか」  何のことやら分からぬが、臨終の師匠の命令である。弟子たちは、まあ、おそらくは、碁盤の上に仏の像を据えたてまつるのであろうと思いながら、大急ぎで、隣の房にあった碁盤を持ってきた。 「拙僧を抱き起こしてくれぬか」 と言うので起こすと、増賀は、蚊の鳴くような弱々しげな声で、龍門聖人を呼びつけた。 「碁を一番打とうぞ」  龍門聖人は、 「この期に及んで、念仏もお唱えにならずにこのようなことをなさるとは、これはきっと気が狂われたのであろう」 と何とも悲しく思われたが、類まれな聖人の仰ることだからと、逆らいもせず、碁盤に寄って、互いに石を十目ばかり置いたところで、増賀は、 「ああ、よいよい、もう打つのは止めじゃ」 と言って、せっかく並べた碁石をごちゃごちゃにしてしまった。 「どういうおつもりで、碁をお打ちになったのか、お聞かせ下さいませんでしょうか」 と、龍門聖人がおずおずと尋ねると、こういう答が返ってきた。 「ずうっと昔、拙僧が小さな法師であったとき、人が楽しそうに碁を打っておるのを見たことがあるのじゃが、ただ今、念仏を唱えながら、ふとそのときのことを思い出してな、そうじゃ碁を打とう、と思うたのじゃ。だからじゃよ」  しばらくすると、また、 「抱き起こしてくれぬか」 との仰せである。まわりの者が抱き起こすと、今度は、 「|泥障《あおり》(泥よけと飾りのため馬の鞍につける革ないし毛皮)を一つ捜して持ってきてはくれぬか」 と言う。さっそく捜して持ってくると、 「それを紐で結んで、この聖人様の首に懸けよ」 と言う。人びとは、増賀の命ずるままに、泥障を首に打ち懸けてやった。すると、増賀は、息も絶えだえなのをこらえながら、左右に腕を伸ばして、 「|古《ふる》泥障をまきてぞ舞ふ」 という歌を歌い出した。二、三回ほどそれを繰り返して、 「もうよい、これを取りのけてくれぬか」 と言って、首から取りはずさせた。  また龍門聖人がそのわけを尋ねると、増賀はこう答えた。 「ずいぶんと若かった頃のことじゃ。隣の房で小さな法師どもがたくさん集まって、わいわい笑いながら騒いでおる。何事かと思うて覗いて見るとな、一人の小さな法師が、泥障を首に懸けて、 [#ここから2字下げ] 胡蝶胡蝶とぞ人は云へども 古泥障をまきてぞ舞ふ [#ここで字下げ終わり] と歌いながら舞っておるのじゃ。これは面白いと思うたのじゃが、すっかり忘れてしもうておってのう、それをたった今思い出したのじゃ。これはぜひやりたいものじゃと思うて、ちょいと歌ってみたのじゃ。今はもはや思い残すことはまったくない」  こう語り終えると、増賀は人を退け、奥の部屋に入り、|縄床《じようしよう》(縄を張っただけの粗末な椅子)に腰かけた。そして、口には法華経を読誦し、手には金剛合掌の印を結び、西向きに坐りながら入滅した。遺骸は、多武峰の山に埋葬された。(『続本朝往生伝』一二、『今昔物語』一二の三三、『発心集』一の五)  奇僧中の奇僧、名利を激烈に振り払った増賀が入滅したのは、長保五年(一〇〇三年)六月九日、八十七歳のことであった。   〔付〕|仁《にん》 |賀《が》  増賀の弟子にも、仁賀というそうとうの変わり種がいた。きわめて短い逸話しか伝えられていないが、それにはこうある。  仁賀は大和の国(一説には近江の国)の人で、もとは興福寺に住していた。秀才の誉れ高い人であったが、ひたすら|後世《ごせ》のことを思い、深く|厭離《えんり》の心を|発《おこ》し、名利を完全に捨て去った。そして、狂病があると称し、またそのように振舞って寺役をさぼり、また、寡婦を妻にしたと偽ったりして、ついに興福寺を逃れ去り、多武峰の増賀のもとに弟子入りした。  一生の間、念仏を怠りなく修し、最期のときを迎えても乱れることがなかった。遺言により弟子たちは仁賀を棺に入れて埋葬したが、その遺骸は、いつまで経っても腐乱することがなかった。(『続本朝往生伝』一三、『扶桑隠逸伝』中) [#挿絵(img/fig7.jpg)]  類は類をもって集まる、奇は奇をもって集まるということであろうか。なお、『続本朝往生伝』(一三)によれば、臨終間際に碁を打ったり、胡蝶の舞を歌ったりした増賀にその意図を訊いたのは、この仁賀であったことになっている。 [#改ページ]   |西《さい》 |行《ぎよう》  西行は、歌人としてあまりにも有名で、その伝記、随想、研究書の類の出版物は山ほどある。古風な言い方をすれば、「汗牛充棟もただならぬ」ということになるわけで、今さらここでくだくだしく述べるつもりはない。ごく簡潔に、「奇」僧らしい雰囲気がふわっと漂っている逸話を|垣間《かいま》見るだけに止めることにする。  西行は、元永元年(一一一八年)に生まれ、建久元年(一一九〇年)に没した。俗名は佐藤|義清《のりきよ》(あるいは憲清、則清とも)といった。父の名は康清。近江の|三上《みかみ》山の大|百虫《むかで》退治で有名な|俵藤太秀郷《たわらのとうたひでさと》の子孫に当たり、射家(弓道家)の誉れ高い家柄の出であった。北面の武士となったが、とりわけ歌道に並々ならぬ才能を発揮し、歌好きの後鳥羽上皇の寵愛もあって、従五位、|左兵衛尉《さひようえのじよう》という官位まで授かった。  ところが、思うところあって、二十三歳のある日、突如妻子を捨てて出家した。そのとき、何も知らずにうれしそうにまとわりついてくる幼な児を蹴っ飛ばして出奔したという逸話は、あまりにも有名である。 「西行」というのは、西方極楽浄土に往生することを願って付けた法名であるが、幕末の志士、長州の高杉晋作は、「西行」をもじって「東行」とみずから号し、和歌ならぬ|都々逸《どどいつ》など、粋な方面に異才を発揮した。真偽のほどは寡聞にして知らないが、「三千世界の烏を殺し、|主《ぬし》と朝寝がしてみたい」という都々逸の名品は、この人の作であるという。  さて、西行と世俗の権力との関係を描いた、次のような逸話が伝えられている。  文治二年(一一八六年)の秋、西行は奥州に赴いた。これは、先年、|以仁王《もちひとおう》と源三位頼政の挙兵に加担したかどで、平家によって焼き打ちされた東大寺を再建しようというわけで、東大寺の|重源《ちようげん》上人と約束して、砂金の勧進を行なうためであったという。途中、八月十五日に鎌倉に入り、|鶴岡《つるがおか》八幡宮の前を通りかかった。  ちょうどそのとき、たまたま源頼朝が鶴岡八幡宮に参詣にやってきた。見ると、鳥居のほとりを、一人の老僧がうろうろしている。頼朝はこれを怪しみ、供の梶原|景季《かげすえ》を遣わして名を問わしめた。老僧が、みずからを西行と名乗ったところ、頼朝はたいへん喜び、八幡宮に|弊《ぬさ》を奉納した後、心静かに対面して、和歌のことなどを話し合いたいとの旨を伝えさせた。西行はこれを承諾し、八幡宮の宮寺を拝み廻って、|法施《ほうせ》を行なったりした。  参詣がすむと頼朝は大急ぎで帰館し、さっそく西行を招き、歌道のこと、弓馬のことなどを、根掘り葉掘り尋ねた。西行の答えはこうであった。  弓馬のことは、いまだ俗世にいたころに生半可なところで伝来していたが、出家、遁世したときに、先祖である俵藤太秀郷以来、九代にわたって正嫡の家に伝えてきた兵法の書物などは、ことごとく焼き捨ててしまった。さらに、|戦《いくさ》の流儀は、|罪業《ざいごう》の因であるから、まったくもって心底に残し留めることなく、すべて忘れ果ててしまった。また、歌を詠ずることについてであるが、花や月に対して感興が湧いたときに、わずかに三十一文字を綴るだけのことであり、奥義といったものはまったくない。であるから、これもまた、申し上げるようなことはない、と。 [#挿絵(img/fig8.jpg)]  しかし、頼朝は、なおも熱心に問うてやまなかった。そこで西行もようやく折れ、高貴な方からわざわざ問を受けて、これに答えないというのも、あまりに不敬である。弓馬のことならば少しは心覚えがあるから、それについて申し上げることにいたそうというわけで、兵法のことなどを詳しく語った。頼朝は、俊兼に命じてこれを記し留めさせた。  明くる八月十六日、西行は頼朝の館を退出した。頼朝は無理にでも留めさせようとしたが、西行はこれを固辞した。そこで頼朝は、西行に銀細工の猫を賜わった。西行は、この銀猫をいちおうはありがたく拝受したが、門の外に出るや、そこらあたりで遊んでいた子供にくれてやり、さっさと道を急いだ。(『扶桑隠逸伝』下、『百人一首一夕話』八)  この逸話に対する『扶桑隠逸伝』の作者、深草の|元政《げんせい》上人の賛には次のようにある。 [#ここから1字下げ] 「名を好む人は、たとえ千金であっても受けることがない。利を欲する人は、ただの一針たりとも捨てることがない。ところが、西行は、銀猫を易々と受け、しかもただちに捨てた。名利にこだわる心が西行にはまったくなかったことが分かろうというものである」 [#ここで字下げ終わり]  けだし、名言というべきであろう。  西行の話で有名なのは、|文覚《もんがく》との出会いである。文覚というのは、もと北面の武士で、誤って人を殺したことをきっかけに出家した人であるが、そもそも血気盛んな人であったとみえる。|高雄《たかお》の|神護《じんご》寺の営繕のためにずいぶん粗暴な振舞いに及び、後白河法皇の怒りを買って伊豆に流されるや、今度は源頼朝に接近し、誰のものかも分からない頭蓋骨を、平家に討たれた父上の義朝公の頭蓋骨だと偽って挙兵を煽ったりした。その後、ひたすら頼朝に取り入って、ついに宿願の神護寺再興を実現したが、やがて、平家の遺児をかついで謀反を企てたとして流罪に処せられ、痛憤の思いを抱きながら没したというのであるから、清濁いずれも猛烈に兼ね具えた、類まれな怪僧であった。  その文覚が西行に高雄山で出会ったというのが、以下の話である。  この文覚は、かねがね西行の噂を耳にしていたが、どうにも気に入らない。そもそも遁世の士は、いちずに仏道に励むべきである。それを、どうして、歌詠みにうつつを抜かし、ふらふらと歩きまわっておるのか。とんでもない野郎だ。もし出会うことがあれば、おれが野郎の頭をぶち破ってやると、つねづね弟子たちに語っていた。  ところが、ある日、西行が高雄山にやってきた。日が暮れてしまったので、文覚の房を訪れて宿を乞うた。飛んで火に入る夏の虫のようなもので、文覚の喜びようは並みたいていではなかった。拳を構えながら戸を開けて、さあ鉄拳がうなりをあげるかと思いきや、文覚は西行をまじまじと見つめ、そしてややあってそっと拳を収め、丁重に中に迎え入れた。  文覚は言った。長い間、ご高名は承っていた。一度、見参いたしたく存じていたところ、こうして思いがけずもそちらからお尋ね下さった。これほど喜ばしいことはない、と。こうして親しく話を交わし、夜の更けるのも忘れるほどであった。翌朝、食事までしつらえてから西行を帰らせた。  どうして師は日頃のことばを実行されなかったのかと、後で弟子たちが尋ねると、文覚の答えはこうであった。ふがいない法師どもだ。お前たちはあの人物の目付きを見なかったのか。あの西行がこの文覚に殴られるような目付きをしていたか、逆に、この文覚を殴るような目付きをしておったのだよ、と。  かつて西行はこう言った。和歌は禅定の修行にほかならない、と。また、こうも言った。自分は和歌によって仏法を得た、と。(『扶桑隠逸伝』下、『百人一首一夕話』八)  西行には、このほか、江口の里の遊女としゃれた歌を取り交わしたという逸話などが数多く伝えられているが、詳しいことは他書に任せ、ここではあと一つ、奇々怪々、興味津々の逸話をみることにする。これは、西行がゾンビを造ったという話である。西行が書いたという虚構のもとに編纂された『撰集抄』所収のものであるから、西行は一人称で登場する。  かつて、高野山の奥に住んでいた頃のことである。月が美しい夜には、とある友達の聖とともに、橋の上で落ち合っては月を心ゆくまで眺めたものである。ところがある日、この聖は、京に用事があると言って、無情にも私を振り捨てて京に上ってしまった。憂き世を厭い、花月の情に通じている同好の友がいてくれたならばと、何となく人恋しい気分でいたところ、思いがけずも、信頼すべき人から、鬼が人の骨を取り集め、こうこうこうやって人を造り出すのだという話を聞いた。  そこでさっそく広野に出かけ、人の骨を集め、それを繋いで何とか人を造ってみた。ところが、姿形だけは何とか人のように出来上がったが、色が悪く、また、心というものがまったくなかった。声は出るのであるが、絃管(楽器)の音のようであった。そもそも、心があってこそ、人の声は何とかかんとか駆使することができるのである。この度は、ただ声が出るための細工にばかり気を取られたものであるから、吹き損じた笛のような具合になってしまったのである。とはいえ、おおかたの人びとにとっては、たったこれだけのものでも、まことに不思議な代物であることに変わりはない。  さて、この出来損いの人をどうしようかという段になって、私ははたと困ってしまった。ばらばらに壊してしまおうと思っても、それでは|殺生《せつしよう》の業を積むことになろう。心がないのであるから、ただの草木と同じだと思いこもうとしても、何しろ人の姿をしている。やはり壊さないに越したことはないと考え直し、結局、高野山の奥の、人も通わないところに捨て置いた。しかし、何かの拍子に誰かがこれを見るようなことがあれば、きっと化物だといって恐れおののくことであろう。  さて、それにしてもいろいろと疑問に思えることがあったので、上洛の折、以前教えをいただいた徳大寺殿を尋ねたが、あいにく参内されて留守であったため、空しく戻り、代わりに伏見の前の中納言|師仲卿《もろなかきよう》のもとを訪れた。そして、かの疑問を打ち明けた。 「いったい、どのような造り方をなさったのか」 と卿が仰ったので、私はこう答えた。 「そのことでござる。まずは広野に出て、誰にも見られないところで死人の骨を拾い集め、これを頭から手足というように、順序を違えずに並べ、|砒霜《ひそう》という薬を骨に塗り、いちごとはこべの葉をこれに揉み合わせ、糸や藤の繊維などで骨を繋ぎ、水で繰り返し洗い、髪の毛の生えるべき頭部には、さいかちの葉とむくげの葉を焼いて灰にしたものをこすりつけ申した。それから、土の上に畳表を敷き、かの骨をうつぶせにして置き、風が通らないようにきっちりとこれを包み込み、二七、十四日そのままにしておいた後、その所に行き、|沈《じん》と香とを|焼《た》いて、|反魂《はんごん》の秘術を行なったという次第でござる」  じっとこれを聞いていた卿は、首を軽く傾けながらこう仰った。 「大筋はだいたいそのようなところでしょうな。しかし、反魂の術が未熟だったのですな。私は、ひょんなことから四条の大納言の流儀を受けましてな、人を造ったことがござる。その人物は、現在、卿相として活躍しておるが、これが誰であるかを明らかにすると、造った人も、造られた人も、ともに融け失せてしまうので、口外するわけには参らぬ。ただ、貴殿もそこまでご存じであるからには、造り方の要点はお教えいたそう。実は、香は焼かぬのでござる。と申すのも、香は魔縁を退けて|聖衆《しようじゆ》を集める力があるからじゃ。ところが、聖衆たちは、|生死《しようじ》(|輪廻《りんね》)を深くお厭いであるから、心が生じ難いということになるというわけでござる。焼くべきものは、沈と乳とでござろう。また、反魂の秘術を行なう人も、七日の間、物を口にしてはならぬのじゃ。こうした点に留意してお造りなされ。一つでも手順を間違えてはなりませんぞ」  なるほどとは思ったが、考えてみればくだらないことであると反省し、それからは人造りはいっさい止めることにした。(『撰集抄』五の一五)  どれだけの史実がこの背後に控えているのか、それはまったく分からないが、話としての興味は尽きない。  だいたい、この話自体、今日のSF小説のような趣がある。西行が造った人は、絃管のような、心が籠らず味気のない声を発したという。これは、現代のコンピューターの発する機械的合成音を連想させる。同じ「はい、分かりました」でも、本物の人が発すれば、その場その場の状況、雰囲気を反映して千差万別の語調を伴うはずであるが、コンピューターでは、いつも同じ「ハ・イ・ワ・カ・リ・マ・シ・タ」で、味気のないことはなはだしい。もっとも、そう遠くない未来においては、感情を持ったコンピューターもできるそうで、そうなると、多少は味気のある声が聞けるかもしれない。  また、この話は、わが国には珍しい本格的な黒魔術らしい秘術に言及している。おそらくこの秘術は道教のものである。そもそも、一部の公家がこの秘術に|長《た》けており、西行もそういう人から人造りの流儀を教わっているといったことからして、これは仏教には本来関係のないものであったことが推察される。  極論すれば、道教の仙術の重要部分は、生死を|弄《もてあそ》ぶことを目的としていると言える。「不老不死」の妙薬、秘術を探索するというのは、まさに生死を弄ぶことにほかならない。ここが、道教と仏教の一つの大きな分かれ目となろう。  仏教では、「生死」ないし「生老病死」は、生きとし生けるものにとって不可避であるという。諸行は無常なのである。このことを真実であるとして、身心の奥底から明らかに知ったとき、人はさとりに達する。そうなったとき、その人は生死にとらわれない自由を得たことになる。またそのとき、人は「生死を離れた」と言われるのであるが、これは、道教で言う、この世における文字通りの「不老不死」を得たというのとは違う。仏教の考えからすれば、不老不死を求めるということは、とりもなおさず生死に深くとらわれているということを意味するはずである。  人恋しさに人造りの道に入りこんだ西行であったが、ついには、その道が生死を弄ぶ邪道であることにはたと気づいたというわけである。 [#改ページ]   隠逸の人 [#改ページ]   |空《こう》 |也《や》  今日では、「空也」の読み方は「くうや」であるが、本当は「こうや」と読むのが正しいらしい。このことは、『日本往生極楽記』をはじめとして、しばしば「弘也」と表記されていることからも推察できるし、また、現に、古い時代の平仮名表記は、ことごとく「こうや」となっている。「南無阿弥陀仏」という六字の|名号《みようごう》を口に唱える念仏が爆発的に民衆の間に広まるようになったのは、一にかかってこの空也の功績である。 『日本往生極楽記』の作者、|慶滋保胤《よししげのやすたね》は、空也の項の最後をこう結んでいる。 [#ここから1字下げ] 「天慶より以前には、道場や|聚落《しゆうらく》において念仏三昧を修するのは希有のことであった。ましてや、仏道に暗い人びとに至っては、それを修するどころか、かえって忌避するありさまであった。ところが、上人が〔都に〕おいでになると、上人は、念仏をみずからも唱え、人にも唱えさせられた。それから後、世を挙げて念仏を唱えるという仕儀となった。まことに、これは上人の|衆生化度《しゆじようけど》の力のたまものである」 [#ここで字下げ終わり]  ここで「道場」というのは、本書の「行基」の項でも触れたように、当時は、「寺院」としての規模や資格に欠ける、いわゆる私設の寺といったほどの意味である。「聚落」というのは、一般の民衆の家々といったあたりのことを指すようである。  伝によれば、空也が京の都に上って念仏を広め始めたのは天慶元年(九三八年)のことであった。  思うに、この天慶元年という時点は、たいへんに重みのある時点であった。というのも、この翌年、平|将門《まさかど》が兵を動かしてまたたくまに関東を手中に収め、みずからを新皇、つまり新しい天皇であると称した。こればかりではなく、都に近い瀬戸内海一円に、海賊の力を背景として、藤原|純友《すみとも》が大規模な反乱を起こした。  それまでにも、都は、菅原|道真《みちざね》の祟りとされる事件が続発しており、そもそも暗雲が立ちこめていたところにこの大騒ぎである。不安は朝廷、貴族のレヴェルにとどまらず、民衆にも広まっていた。これが、当時ぼつぼつとくすぶり始めていた末法意識にいっきょに油を注ぐことになった。そして、まさにこのときに、万人に開かれた空也の念仏が登場したのである。  であるから、慶滋保胤の記述は、おそらく誇張ではなく、事実にほぼ沿ったものであったと思われる。  それまで、念仏といえば、比叡山で行なわれる「朝題目、夕念仏」の「夕念仏」、あるいは、|常行《じようぎよう》三昧堂という、世間から完全に隔絶したところで、苦行の一つのようなものとして延々として唱えられる念仏あたりが中心であった。これは、「|引声《いんぜい》阿弥陀経」といったように、きわめて優雅な節回しで|読誦《どくじゆ》されたりするものであり、一部の貴族を除いて一般にはとんと縁のないものであった。  これが、天慶年間のわずかの間に、ふつうの民衆までが「南無阿弥陀仏」と唱えて誰も驚かないようになったのであるから、タイミングのよさもさることながら、空也の力のものすごさが窺われる。  空也は延喜三年(九〇三年)の生まれであるが、その出自はよく分からない。そもそも、空也自身、自分が誰の子であったのか、また郷里がどこであるのかを語ることがまったくなかった。一説によると、延喜帝、つまり醍醐天皇の第五番目の子であったといい、また別の説によれば、仁明天皇の皇子|常康《つねやす》親王の子であったともいう。  当時は、天皇の外戚として藤原氏が権勢を専横しつつあった。現に、空也が生まれた延喜三年は、藤原時平の陰謀によって九州の太宰府に流された菅原道真が憤死した年でもある。下司の勘ぐりではあるが、こうした政界状況のもとで、いかに天皇、親王の御|落胤《らくいん》とはいえ、藤原氏でない母から生まれた子としては、ことさらどうのこうの言ってみても始まらないというわけであったのかもしれない。あるいは、思わざる紛争の渦に巻きこまれるのを恐れたためかもしれないが、確かなことは何も分からない。 『空也|誄《るい》』などによれば、空也は十代の後半、|優婆塞《うばそく》(在家の男の仏教信者)の身でありながら、五畿七道をめぐり、道を開き、橋をかけ、野辺に捨てられている屍を集めては火葬に付して|廻向《えこう》してやったりした。そして、二十一歳のとき、尾張の国分寺において出家、得度した。  その後、空也は諸国で厳しい修行を行ない、また一説によると、仏教があまり広まっていない奥州を|巡化《じゆんげ》したともいう。空也の修行ぶりについては、きわめて断片的なものしか伝えられていないが、その中でも特に興味深い逸話は次のようなものである。  |播磨《はりま》の国は|揖穂《いいほ》郡に、|峰合《みねあい》寺という寺院があり、そこには一切経が収蔵されていた。空也上人はこの寺に止住して、何年もの間、一切経をひもとき、学習に専念する生活を送った。経典の文句で意味がよく分からないところがあると、いつも、夢に|金人《きんじん》が現われて教えを授けてくれた。夢から醒めて、改めて同輩の智者にその不明の個所の意味を尋ねてみると、果たして金人の教えとまったく同じであった。(『空也誄』、『日本往生極楽記』一七)  ここで金人というのは、夢に現われて仏法についての疑義を明らかにしてくれる、一種の精霊のようなものであり、中国では早くも『後漢書』の「西域伝」にその記述が見られる。わが国でも、聖徳太子が|疏《しよ》(経典の注釈書)を作製されたさいに、金人が夢に現われて教えを授けたと言われている。  さらにもう一つの逸話。  阿波と土佐の両国の境の海中に、湯島という島があった。人の伝えるところによれば、この島には観音菩薩の像があり、たいへんに霊験あらたかであるという。空也上人は、生身の観音菩薩にお目にかかろうと思って湯島に渡り、数カ月もの間苦行を修したが、いっこうに拝することができなかった。そこで上人は、尊像に向かい、腕の上に香をのせてこれを|焼《た》き、十七日間、昼夜にわたって不動不眠の行を修した。ここにようやく尊像は微妙な光明を発し始めた。ただし、目を閉じると見え、目を開けると見えなかった。(『空也誄』、『日本往生極楽記』一七)  腕の上で香を焼くというのは、いわゆる焼身供養のことで、自分の指に火をつけて灯明として捧げるというやり方もある。数ある苦行の中でももっとも過激な部類に入るもので、今日でも、仏道に専心するという決意のほどを自他ともに確認するために、この焼身供養を実行する人びとがいると聞く。もちろん、お|灸《きゆう》を据えるのとはわけが違い、いかに身体の一部とはいえ皮膚組織が全壊するほどの重度の火傷を負うことになり、したがって、傷口が癒えても、猛烈なケロイドが残るというのであるから、確かによほどの決意がなければ実行できない。 [#挿絵(img/fig9.jpg)]  さて、どこでどうしていたのかは不明であるが、天慶元年(九三八年)、空也は都に上り、なかでも喧噪を極める四条の辻を拠点にして、南無阿弥陀仏の六字の名号をみずからも唱え、人にも勧めた。そこで空也は、「阿弥陀の|聖《ひじり》」とか「|市《いち》の聖」と呼ばれ、人びとに親しまれた。また、空也が指導して掘った井戸は「阿弥陀の井」と呼ばれた。  天暦五年(九五一年)、空也は洛東に一寺を建立した。これが|西光《さいこう》寺、後の|六波羅蜜《ろくはらみつ》寺の始めである。この寺には、布教をしている空也の姿を写した像が伝えられている。中学や高校の歴史の教科書にも登場するほど有名な像であるが、|法衣《ほうえ》をまとい、首から|鉦鼓《しようこ》をぶら下げ、右手に|撞木《しゆもく》を持ち、左手に鹿の角の飾りのついた杖を持ち、口からは「南無阿弥陀仏」の六字が、六体の小さな仏となって吐き出されている。  もっとも、空也がこのような姿で念仏を人びとに勧めていたかどうかは疑わしい。鉦鼓、撞木、鹿の飾りのついた杖という道具立ては、後世のいわゆる空也僧たちのものであるが、それにしても、六体の小さな仏が口から吐き出されるという意匠は、空也の念仏行がいかに民衆の心を魅きつけたかということを如実に示して余りある。  ところで、空也が、人里離れた所、世俗からいちおうは隔離されている寺院によらず、どうして、わざわざ四条の辻などという騒がしい所に好んでよったのかについては、次のような逸話が伝えられている。 「市の聖」と呼ばれたこの人も、初めは山中の寺にあって多くの弟子たちの指導に当たっていて、おおいに尊敬を受けていた。しかし、そうした山中での行住坐臥、立派な高僧として過ごす日々は、空也にとっては少しも心にかなうものではなかった。  空也は折につけ、ふと独り言を洩らすことがあった。 「いやはや、なんと騒がしいことよ」  弟子たちとしてみれば、とくに馬鹿騒ぎをした覚えはないのだが、尊敬すべき師匠がそのようなことをつぶやいているのを耳にすると、まだおのれの行ないに師匠の気分を害するような未熟なところがあるのかと、思わずも反省させられ、ますます慎みを深くしていった。  ところがである。あるとき、空也は誰にも何も告げずに、突如として姿をくらましてしまった。何がどうしたのやら見当もつかない弟子たちは、ともかくも八方手を尽くして師匠を捜し回ったが、どうしても見つからない。数カ月も経つと、弟子たちもあきらめざるをえず、もはやこれまで、師匠のいない寺にいつまでいても空しい限りと、それぞれの感慨を胸に各地に散っていった。  実は空也は、ひそかに市中に潜りこんでいたのである。ただし、その住まいたるや、むしろを懸けただけのものであり、また、その食たるや、壊れてほとんど使いものにならなくなったお盆をむしろ懸けの前に置いて、ただひたすら誰かがその中に残飯を放りこんでくれるのを待つだけであった。要するに、物もらいとまったく同じことをしていたのである。捜してもなかなか見つからないわけである。  さてある日、かつての弟子が、所用あって市中に赴いた。たまたま空也のむしろ懸けの前を通りかかり、何気なしにちらりと乞食坊主に目をやると、これが何と、見つからずじまいだった師匠ではないか。驚くやら喜ぶやら、まさかこんなところにおわしますとはと、懐かしさのこみあげるなかにもいぶかしさは限りなく、挨拶のことばももどかしい。 「お師匠さまは、あの静かな山の中でも騒がしいと仰っていたではありませんか。それを、どうしてこんな騒がしいばかりの市中においでなのですか。ちょっと解しかねますが」 「拙僧は山中にあって、衆僧を教え、育ててきた。そのため、拙僧は一時として心の休まることがなかった。おぬしは不思議に思うかもしれないが、市中の方がかえって安息無事である。きちんとした鉢ではないが、代わりになるものはおのずからある。不足というものはまったくない。そればかりではない。眼の前に繰り広げられる生きとし生けるものの世界、さまざまな行ないというものが、拙僧にとってはこの上ない観想の手がかりになってくれる。閑静な境地を求めようと思うならば、ここより勝れたところはないのである」  弟子は、もはや語ることばを失い、流れる涙を拭いながら立ち去っていった。(『扶桑隠逸伝』中)  この話が、果たしてどれほどの事実を伝えているかはまったく明らかでないが、この話の趣旨は当時、および後世の人びとにとっての常識的理解を示すものである。例えば、『撰集抄』にも、 [#ここから1字下げ] 「空也上人が、山陰の静かなたたずまいを物騒がしいといって嘆き、いかにも物騒がしそうな都の四条の辻こそが静かであるとして、『むしろこも』を引きめぐらした庵をしつらえられた昔のことも感慨深く思い起こされ……」 [#ここで字下げ終わり] というように関説されている。  次に、空也が犯罪人たちの|教化《きようげ》に力を入れたという話が、いくつか伝えられている。 『空也誄』によれば、獄舎の門のかたわらに塔を一基建立した。そこに安置された仏像の顔は満月のように輝き、|廂《ひさし》につけた|宝鐸《ほうたく》は、風に吹かれて涼しげな音色をたてた。囚人たちは、思いもかけず仏の尊顔を仰ぎ、法音を聴くことができたと、涙を流して喜んだ、と。  空也が直接、盗賊を教化した話も伝えられている。  あるとき、空也は帰りが夜ふけになった。寂しい道を歩いていると、ばらばらと数人の盗賊が現われ、空也を取り囲んだ。 「私を沙門と知ってのことか」 と空也が問いただしたが、盗賊たちは少しも動ずる気配がない。空也はこれを見て、突然わあわあと泣き出してしまった。これには盗賊も呆れ顔で、 「こいつは恐れ入ったね。おまえさんも自分で沙門と名乗っているほどの人間だろう。|無一物《むいちもつ》こそ沙門の本来って言うじゃないか。どうしてそんなに物惜しみするんだね。みっともない真似をするんじゃないぜ」 と絡んでくる。ところが、空也の答えはこうであった。 「貴公たちは、たまたま|今生《こんじよう》に、受け難い|人身《にんじん》(人間の身体)を受けたのじゃ。|善業《ぜんごう》を積もうというのが当たり前であるのにもかかわらず、かえって|悪業《あくごう》をなしておる。来世において、この罪の果報を免れることはもはやかなわぬ。こう思うと、拙僧は貴公たちのことが泣けて泣けてしかたがないのじゃ」  これを聞くや、盗賊たちは、この沙門があの有名な空也であることを知り、算を乱して逃げていった。  翌日、空也のもとに、今しがた剃髪したばかりというていの男たちが、六、七人やってきた。この者たちは、空也に恭しく拝謁し、涙をこぼしながら語った。 「昨夜は、たまたま上人様にお目にかかり、お|誨《さと》しのことばを拝受いたしましたが、われら一同これが骨身にしみまして、一晩中眠ることができませんでした。そこで、みずから先非を悔い、そろって出家したという次第でございます。これもひとえに上人様のおかげでございます」(『本朝高僧伝』)  こうしたものと少し趣向は違うが、次のような、やはり盗賊が登場する話もある。  ある|鍛冶《かじ》の|工《たくみ》が、空也上人のもとを通りかかった。大金を懐にして帰る途中であった。工は、ふと思いついて上人にこう申し上げた。 「もはや日も暮れましたが、帰り道はまだまだ遠いというありさまでございます。大金を所持いたしておりますので、どうも不安でなりませんが、いかがいたせばよろしいでしょうか」  上人の答えはただ一言、心に阿弥陀仏を念じなされということであった。  果たして、この工は、途中で盗人に行き合った。そこで、上人の指図通り、心に阿弥陀仏を念じた。すると、盗人はこれを見て、何とこれは市の聖にておわしますわいと言って、そそくさと退散してしまった。(『日本往生極楽記』一七)  空也にまつわる|奇瑞譚《きずいたん》として、空也の|臂《ひじ》の曲がりを高僧が治癒したというものが伝わっている。古い文献には出てこず、『宇治拾遺物語』あたりになって初めて現われる。ただし、当時はたいへん人気を呼んだ逸話らしく、ずいぶんいろいろな文献に登場している。まず、『宇治拾遺物語』に収められている逸話は、次のごとくである。  昔、空也上人が、申すべき所用があって、一条大臣殿(源|雅信《まさのぶ》)のもとに参上したところ、蔵人所に案内された。そこには、|余慶《よけい》僧正という人も来合わせていた。さまざまな話を交わしていたが、そのうちに、空也の左の臂が妙な具合に曲がっているのに気がついた僧正が、こう尋ねた。 「その臂はどうして折ってしまわれたのですか」 「なにしろ幼児のときのことであるゆえ、覚えてはおらぬのじゃが」 と前置きをしてから、上人はこう語った。 「何でも、後から聞いたところでは、わが母があるときたいへんに怒り、わが片手をつかんで力まかせに放り投げたとか。そのとき臂を折ってしまったのじゃそうな。しかし、折ったのがまだ左の臂であって幸いじゃった。これが右の臂であったならば由々しいことでござったろう」  そこで、僧正は提言した。 「あなた様は貴い上人でいらっしゃいます。天皇の御子であると人は申しております。ここでこうしてお話を交わすことができましたのも、ありがたい縁であると存じます。そこで、拙僧が、あなた様の臂の曲がりを祈り治してごらんにいれたいと思うのですが、いかがなものでございましょうか」  すると、上人は、 「これは嬉しいことじゃ。まことにありがたい。どうか加持して下され」 と言って、僧正の近くに寄っていったものであるから、これは|見物《みもの》とばかり、殿中の人びとが集まってきた。  衆人環視の中、僧正は頭の天辺から黒い煙を立ち上らせながら加持したが、ややあって、上人の曲がった左の臂が、バシッと音をたてて真直に伸び、右の臂と同じようになった。上人は涙を流して、三度、僧正を礼拝した。見ていた人も、大声を挙げて感嘆しあい、また、中には感激して泣き出す人もいた。  その日、上人は、若い聖三人を供に連れてきていた。  一人は、縄を取り集める聖であった。道に落ちている古い縄を拾い、壁土を練るときにそれを混ぜ、古い堂舎の崩れた壁を補修することに努めた。  一人は、捨てられた|瓜《うり》の皮を拾い集め、水できれいに洗って、獄の中の囚人たちに与えることを常とした。  もう一人は、|反故《ほうご》(不用になった紙)を拾い集め、もう一度紙に|漉《す》き直して、経典を書写した。  上人は、臂が治ったお礼の布施にと、この反故の聖を僧正に奉った。僧正はたいへん喜び、さっそく弟子に迎え入れ、|義観《ぎかん》という名を授けた。(『宇治拾遺物語』一二の六)  この話の中で特に興味深いのは、左の臂が曲がって真直にならなくなった理由を、空也みずからが語っているくだりである。『撰集抄』(八の三三)によれば、ここは、 [#ここから1字下げ] 「これは、幼いときに高い所から落ちて折ったものじゃ」 [#ここで字下げ終わり] というに留まっているが、『元亨釈書』(感進四の三)では、 [#ここから1字下げ] 「幼いときのことじゃが、父と母との間にいさかいがあり、そのとき、母が腹立ちまぎれにわれを捉え、地面に投げつけたのじゃ。それ以来、左の臂が真直に伸びぬようになり申した」 [#ここで字下げ終わり] と、かなり生々しい記述になっている。  そもそもこの逸話が、『空也誄』や『日本往生極楽記』はもとより、『今昔物語』にも収録されていないということは、その成立が比較的新しいことを意味する。また、空也は父母について何も語らなかったと古い文献にあるところからして、たとえ父母の氏姓について触れていないとはいえ、父母がいさかいを起こして云々というのは、おおいに|眉唾《まゆつば》ものである。  ただ、それにしても、この逸話の面白さに変わりはない。父母のいさかいの理由は何であったのか、父の浮気を母が責めたのか、それとも子供のしつけについて父が母をとがめたのか、勘ぐろうと思えばいろいろ勘ぐることができる。しかしそれにしても、母の行動はいささか異常であり、少なくともヒステリーではなかったかと推察される。あるいは、常日頃の母のヒステリーのために、父の苛立ちもそうとうなもので、それで、ささいなことがきっかけになってそのような騒ぎになったのかもしれない。  いずれにしても、この逸話からは、空也の育った家庭が、子供にとってあまり居心地のよくない家庭ではなかったかと想像される。空也が父母について語るのを避けたというのは、あんがい、このようなわけだったのかもしれない。  さて、空也は、一般の民衆に広く迎え入れられたが、やがて、既成教団の高僧たちにも深い影響を及ぼすようになった。  その高僧たちの中でもとくに有名なのは|千観《せんかん》と|源信《げんしん》である。  千観は、|園城寺《おんじようじ》の大学僧であったが、たまたま町なかで出会った空也の話に衝撃を受け、天下の名声をかなぐり捨てて隠遁した。以来、念仏三昧に明け暮れるかたわら、阿弥陀和讃を作ったり、浄土教に関する著述をものして、知と行の二つの方面で、浄土教の興隆に貢献した。このあたりのことについては、本書の「千観」の項を参照されたい。  また、源信は、|恵心僧都《えしんそうず》とも呼ばれる比叡山の高僧であり、その後のわが国の浄土教の原点というべき『往生要集』という名著を書いたことでよく知られ、しばしば「日本浄土教の祖」とみなされている。どこまで史実に基づいているのかはもちろん不明であるが、この恵心僧都源信と空也との出会いは次のようなものであったという。  恵心僧都源信は、その昔、空也上人にお目にかかろうと思い立ち、山を下りて上人のもとを尋ねたことがあった。上人は、そのときすでに高齢(恵心僧都よりも三十八歳年長)で、徳高く、一見してからに只人とはとうてい思えず、たいへん貴く見えたので、僧都は|後生《ごしよう》のことを問うてみた。 「愚僧は、極楽を願う心は深いつもりでおりますが、果たして極楽往生を遂げることができますでしょうか」 「拙僧は無智の者でござる。いかにしてさようのことを判ずることができ申そう」 と空也は答えた。 「ただ、智者の申されたことを、つらつら考えてみるに、貴僧が往生できぬということはござるまい。そのゆえはと申せば、こう言われておるからじゃ。つまり、もし人あって|六行観《ろくぎようかん》を修して上界の|定《じよう》を得ようとするとき、『|下地《げじ》は|麁《そ》(粗雑)なり、苦なり、障なり。|上地《じようじ》は静なり、妙なり、離なり』ということを信じて、下地の下劣な様を厭い、上地のすぐれていることを心に念ずれば、その観念(瞑想)の力によって、順次に|境界《きようがい》が進み、ついには|非想非非想処《ひそうひひそうじよ》まで至ることができると言われておる。このようなわけであるから、極楽往生を願う行者の場合も、また同じことじゃ。たとえ、智慧や行徳がなくとも、|穢土《えど》を厭い、浄土を願う志が深いのであれば、どうして往生できぬということがござろうか」  上人のこのことばを聞き、僧都は、 「まことに、この上ないすばらしい教えでございます」 と言って涙を流し、合掌し、上人に深く帰依された。  やがて恵心僧都は、『往生要集』を著わされたが、このときのことを念頭に置かれて、「|厭離穢土《えんりえど》、|欣求浄土《ごんぐじようど》」を第一の原則とされたのである。(『発心集』七の一)  六行観というのは、別に六行相観ともいい、世親作の『|倶舎論《くしやろん》』(二四)に説かれている瞑想法のことである。簡単に(といっても少しややこしいが)いえば、だいたいこういうことになる。  まず、|輪廻《りんね》する生きものが棲息する世界のことを|三界《さんがい》という。これは、下の方から、|欲界《よくかい》、|色界《しきかい》、|無色界《むしきかい》の三層から成る。欲界の一番下層には、われわれのような生きものが住み、その上に、六欲天(「天」は、第一義的には「神」を、第二義的にはその神の住む場所を指す)が順次に住み分けている。色界には、下から、|初禅天《しよぜんてん》、第二禅天、第三禅天、第四禅天の四禅天が、無色界には、|空無辺処《くうむへんじよ》天、|識無辺処《しきむへんじよ》天、|無所有処《むしようしよ》天、非想非非想処天の四無色天が配列される。  また、この諸層は、修行の進展によって得られる諸々の境地、つまり「|地《じ》」と同一視される。この地は、欲界で一地、四禅天で四地、四無色天で四地、合わせて九地を数え、しばしば「三界九地」と呼び慣わされている。なお、先ほどの逸話で「上界」とあるのは、欲界の上の界ということで、つまりは色界、無色界の二界を指す。  さらに『倶舎論』では、煩悩を断ずる段階として、|加行《けぎよう》道、|無間《むけん》道、|解脱《げだつ》道、|勝進《しようしん》道の四道を立てる。そして、そのうちの無間道においては、現在自分が到達している地とそれ以下の地を対象として、麁であり、苦であり、障であるという三行相を観じて厭い、解脱道においては、現在自分が到達している地よりも上の地を対象として、逆に、静、妙、離の三行相を観じてこれを|欣《ねが》うのであるとされる。この、厭うべき三行相と欣うべき三行相を観ずることを六行(相)観というのである。  ごたごたと説明を加えたが、右の逸話の趣旨からして、問題となっているのは、要するに、この六行(相)観においても、現状ないしそれ以下の状態を厭離し、上の方の状態を欣求するということである。  さて、天慶元年に京の都に上るまで、空也が各地で激しい苦行に身を挺したらしいということはすでに述べた。このことから察しても、また、本書の「|陽勝《ようしよう》」や「仙人群像」の項でも触れたように、そもそも「聖」というものが「仙人」の別名としても用いられたことから察しても、空也が|験力《げんりき》を発揮したという逸話があって不思議はない。  次の逸話は、空也の験力譚の一つである。  昔、|山階《やましな》寺の|松室《まつむろ》というところに、|仲算大徳《ちゆうさんだいとこ》というすばらしい智者がいた。武蔵の国は川越の|喜多《きた》院の|空晴《くうせい》僧都(天徳元年〔九五七年〕没)の弟子である。伝によれば、水の流れから出てきた|化人《けにん》であったという。  この仲算が、いまだ幼少で、空晴僧都の室にいたときのことである。空也上人は、経典の教えのことばについて尋ねようとして、空晴のもとを訪れた。ところが、そのとき僧都はちょうど外出中で、この仲算だけが留守番に置かれていた。  僧都が外出中であるということを聞いた空也上人は、この子供が一人でいることを可哀想に思い、内に入って、 「あそこにある碁盤を持ってきなされ。碁を打ってみせて進ぜよう」 と言った。仲算は、碁盤を運ぼうとしたが、重くてとても持ち上がりそうもない。これを見て空也上人は言った。 「それならば、この|念珠《ねんじゆ》(数珠)を盤の上に置きなされ」  仲算は、言われるままに、念珠を聖(空也上人)の手から受け取り、碁盤の上に置いた。すると不思議、念珠は碁盤にしっかりと巻きついて、聖のもとにそれを運んできたということである。(『撰集抄』七の四)  このほか、やや史実なるものとの関連において興味をそそる逸話として、空也と松尾大明神との出会いをテーマにしたものがいくつか目につく。  例えば、『発心集』(七の二)は、冬のさなか、人間の姿を借りた松尾大明神が寒さに難渋しているのに出会い、着ていた小袖を譲ったという話になっている。ここで、空也はこう語っている。 [#ここから1字下げ] 「拙僧が下に着ておる小袖は、この四十年余り、起き伏しにつけ|起《た》ち居につけ、法華経を読誦したその|功徳《くどく》が染みこんだ衣でござる。垢にまみれていて、いささか申し訳ござらぬが、これを奉ろうと存ずる」 [#ここで字下げ終わり]  このありがたい小袖の奉納を受けた松尾大明神は、今後、空也を守護することを約束し、空也を伏し拝んで去ったという。  この種の逸話で面白いのは、空也が熱心な法華経の信奉者、いわゆる法華経の持者であったということである。空也といえば念仏というわけであり、もちろんのことながら、それはそれで正しいのであるが、空也が念仏「だけ」を修していたとなると、これはおそらく間違いである。  歴史上、念仏「だけ」を修するということ、つまり「|専修《せんじゆ》念仏」ということは、浄土宗の開祖である|法然《ほうねん》上人から始められたというのが通説になっている。それまでは、天台宗の「朝題目に夕念仏」のように、法華経と念仏を同時に信じ、行ずることがふつうだったのである。  右の『発心集』の逸話の末尾には、こう書かれている。 [#ここから1字下げ] 「そもそも天慶より以前には、……(先に紹介した『日本往生極楽記』の末尾の賛の文面とほぼ同じ)……。すなわち、法華経と念仏とを重視し、これらを極楽往生のための|業因《ごういん》として往生を遂げられたということが、諸本に見えている」 [#ここで字下げ終わり]  なお、堀一郎氏(『空也』吉川弘文館)によれば、松尾大明神が空也と結びつけられたのは、空也が建立した六波羅蜜寺の鎮守の神がこの松尾大明神であったことと関連があるのではないかという。  天禄三年(九七二年)の九月十一日、空也は、西光寺(六波羅蜜寺)において入滅した。享年六十九歳であった。入滅の場所として、会津の八葉寺などを挙げる伝承もあるが、これは、空也の晩年における奥州巡化の伝承、ないし、後のいわゆる空也僧たちの活動と関係があると考えられている。  最後に、空也の和歌とされているものを四首、紹介しておこう。 [#ここから2字下げ] 極楽ははるけきほどと聞きしかどつとめていたるところなりけり(『空也誄』) 一度も南無阿弥陀仏といふ人の|蓮《はちす》の上にのぼらぬはなし(『拾遺和歌集』) |有漏《うろ》の身は草ばにかかる露なるをやがて蓮に宿らざりけん(『新勅撰和歌集』) 極楽はなをき人こそまゐるなれまがれることをながくとどめよ(『古事談』) [#ここで字下げ終わり]  西行のような人の和歌は例外であるが、だいたいにおいて、出家の和歌はこのようなものである。つまり、意味は単純明快でけっこうなのであるが、無技巧にすぎてあまりにも散文的である。楽しめる和歌では少なくともない。 [#改ページ]   |教《きよう》 |信《しん》  浄土真宗の開祖、|親鸞《しんらん》上人は、大著『|教行信証《きようぎようしんしよう》』の後書きの中で、「|愚禿釈親鸞《ぐとくしやくのしんらん》」と名乗り、またみずからを、「|非僧非俗《ひそうひぞく》」と称した。「愚禿釈親鸞」というのは「愚かな禿頭の仏教僧の親鸞」のことであり、「非僧非俗」というのは「出家でもなければ在家でもない」ということを意味する。いずれも、強烈な自嘲と、その自嘲と噛み合わせになっている深い確信のようなものを、意外にはっきりと示しているから面白い。  われわれ凡夫は、煩悩にがんじがらめにされているため、難しい教えや厳しい修行(|聖教道《しようぎようどう》ないし|難行道《なんぎようどう》)にとてもついていけないし、たとえついていったとしても、さとり澄ました境地に達することなど、とうていおぼつかない。しかし、ありがたいことに、阿弥陀仏の慈悲心は宏大で、どうしようもなく劣悪で惨めったらしい|衆生《しゆじよう》にこそ、かえって救いの手を差し伸べて下さるのである、というのが、親鸞上人がみずからの苦渋に満ちた人生体験から|掴《つか》み取った考えである。  親鸞上人は、比叡山と南都で、二十年間にわたって聖教に参究しながらも、煩悩の炎をいっこうに消すことができないことを悩み抜いた末、ついに|法然《ほうねん》上人の|専修《せんじゆ》念仏に活路を見出して、山を下り、出家の身でありながら公然と妻帯した。  この親鸞上人が、みずからの生き方のモデルとして終生敬慕してやまなかった人が、|賀古駅《かこのうまや》の教信|沙弥《しやみ》であった。  教信沙弥については、あまり確かな記録は残されていない。光仁天皇の皇子であるという説もあるが、真偽のほどはまったく定かでない。はじめは興福寺の学僧で、唯識とか|因明《いんみよう》(仏教論理学)とかを修めていたらしいが、やがてその空しさをさとり、|播磨《はりま》の国の賀古に隠遁した。そして、聖教を捨て、妻帯して子を儲け、極貧の中で、まさに親鸞上人の自称のごとく「非僧非俗」といった風体ながら常に念仏を唱え、近隣の人びとから「|阿弥陀丸《あみだまる》」と呼ばれて親しまれるほどであった。没したのは貞観八年(八六六年)八月十五日のことで、享年八十歳であったという。  親鸞上人が没したのは弘長二年(一二六二年)であるから、教信沙弥は、実にそのほぼ四百年前に没したということになる。「非僧非俗」で、しかも熱烈に仏道を貫いた人物としてもかなり古い時代に属するが、このような古い時代に、これほどまでに念仏に身を挺した人物がいたということも驚きである。  そもそも、第三代の天台|座主《ざす》の|円仁《えんにん》が、初めてわが国に|常行《じようぎよう》三昧(つまり念仏三昧)の修法を伝えたのが仁寿元年(八五一年)のことであり、また、わが国浄土教の祖と言われる|空也《こうや》が京の市中で念仏を広め始めたのが天慶元年(九三八年)であるから、その先駆者ぶりには、目をみはるものがある。  さて、前置きはそのくらいにして、教信沙弥の逸話をみることにしよう。教信沙弥の逸話は、筆者の知るかぎりでは、ほぼ単一の系統に成るもので、|摂津《せつつ》の国の|箕面《みのお》の|勝尾《かつお》寺の|勝如《しようによ》の逸話という形で伝えられている。  勝如は、貞観九年(八六七年)に、八十七歳で没した人で、証如とも言う。また、勝尾寺は、天平神護元年(七六五年)に、光仁天皇の皇子の|開成《かいじよう》が開いた|古刹《こせつ》で、はじめは|弥勒《みろく》寺と名付けられていたが、後に清和天皇が行幸して、勝尾寺の勅号を賜わった。有名な箕面の滝から少しばかり登ったところにあり、今日でも、なかなかの景勝を誇っている。 [#挿絵(img/fig10.jpg)]  昔、摂津の国の|嶋《しま》の|下《しも》の郡に、勝尾寺という寺があった。その寺に勝如聖人という僧が住していた。たいへん道心の深かった人で、衆僧から離れたところに別に草の庵を造ってその中に籠り、実に十数年にわたって、六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の衆生のために無言の行を修した。弟子の童子と顔を合わすことすら稀であった。ましてや、その他の人に会うことなどまったくなかった。  ところがある日のことである。真夜中に誰かがやってきて、勝如の庵の柴の戸をたたいた。勝如はこれを聞いたけれども、無言の行を修しているため、ことばに出して問うことができない。そこで、咳ばらいをして、戸の外の人に合図を送った。そこで、その人はこのように告げた。 「みどもは、播磨の国、賀古の郡の賀古の駅の北のほとりに住まいなす、沙弥教信と申す者でござる。長年、南無阿弥陀仏を唱えて、極楽に往生したいと願っており申したが、本日、その念願の極楽往生を遂げ申した。聖人(勝如のこと)もまた、某年の某月某日に、極楽からの迎えをお受けになるでござろう。このことを告げ申そうと存じて参った次第でござる」  こう言って、その人は去っていった。  勝如は、これを聞いておおいに驚き、かつ不審に思い、夜が明けるやただちに無言の行を止め、弟子の|勝鑑《しようかん》という僧を呼んでこう語った。 「昨夜、拙僧にかくかくしかじかのお告げがあった。そこで頼みがあるのじゃが、今よりただちに、かの播磨の国に下り、教信という僧が本当にいるかどうか、尋ねてきてもらいたい」  勝鑑は、師の指示に従って、ただちに播磨の国に下り、言われたあたりを尋ねてみた。やがて、賀古の駅の北の方で、小さな庵が勝鑑の目に止まった。その庵の前には一人の死人が横たわっており、犬や烏が群れ集って、その身体を競って食い荒していた。庵の中には、一人の老女と一人の子供がいて、ともに悲痛な声で泣き悲しんでいた。  勝鑑は、このありさまを見て庵の入り口に立ち寄り、事の子細を問うと、老女は答えた。 「そこに横たわっているのは、私が長年連れ添ってきた夫で、名を沙弥教信と申します。生きてこの世にあったときには、常に弥陀の念仏を唱えておりました。昼も夜も、起きているときも寝ているときも、片時たりとも怠ったことはありません。ですから、隣の里の人は、みな、教信のことを阿弥陀丸と呼んでおりました。それが、昨夜、息を引き取りまして……。何しろ私も年を取りまして、それで長年連れ添った夫に今しがた死別されましたものですから、それが悲しくて泣いているのでございます。それから、ここにおります子供は、教信の子でございます」  勝鑑は勝尾寺に戻り、事の子細を勝如に報告した。勝如は、これを聞いて涙を流して悲しみつつ、心に測り知れない畏敬の念を起こした。(『日本往生極楽記』二二、『今昔物語』一五の二六、『後拾遺往生伝』上の一七、『元亨釈書』感進四の一) 『今昔物語』では、この後、勝如がただちに、今度はみずから教信のところに赴き、泣く泣く念仏を唱えてから自分の庵に帰った。そしてそれ以来、勝如が日夜に念仏を唱えて、ついに、教信が告げた日に極楽往生を遂げた、という話が、あたかも付け足しのようにあっさりと述べられている。しかし、『日本往生極楽記』と『後拾遺往生伝』では、勝如が、勝鑑の話を聞いてから、翌年の八月十五日、つまり教信が予告したまさにその日に極楽往生するまでの話に、比較的大きなウエイトが置かれている。ここでは、その部分について、やや詳しい記述をしている『後拾遺往生伝』の方を中心に見てみることにする。  勝鑑の話を聞いて、勝如は思った。自分が十数年にわたって修してきた無言の行よりも、念仏の方がはるかに勝れている、と。そこで、その年の八月二十一日に、初めて里に出て、片っ端から家々を尋ね、大乗の教えを説き、人びとを|教化《きようげ》した。みずから念仏を唱えるばかりでなく、他人にも念仏を勧め、|丈六《じようろく》の阿弥陀仏の立像の図絵を作ること九体、法華経を書写すること六部を数えた。これは|九品《くほん》の極楽浄土を望み、六道の衆生を救おうとしてのことであった。(『日本往生極楽記』二二、『後拾遺往生伝』上の一七)  つまり、念仏という行をよりどころとして、勝如が大乗の自利利他の慈悲の|菩薩行《ぼさつぎよう》に乗り出したのは、ひとえに教信の影響であったというわけである。  教信沙弥は、やがて時代が下るとともに評価が高まっていった。初めに述べた親鸞上人は言うまでもなく、さらに後世の|一遍《いつぺん》上人も、教信沙弥を敬慕してやまなかったという。  ちなみに、教信沙弥の|遺骸《なきがら》が、犬や烏の食い荒すままに放置されていたという話であるが、これはいかにも悲惨な印象を受ける。ただ、当時は、風葬という葬法がきわめて一般的な葬法だったことを考え合わせると、必要以上に悲惨さを感じ取ることはないのかもしれない。もっとも、ある程度の資産があれば、他の葬法もありえたではあろうが。 [#改ページ]   |理《り》 |満《まん》  先に取り挙げた|玄賓《げんぴん》もそうであったが、この理満も渡し守をやっている。また、次項で紹介する|千観《せんかん》は、渡し場に出向いて馬引きの労をとっている。仏門内部での栄達の道を捨て、名を隠し、しかも世間の人びとのためになることをしようと思う遁世の士は、どういうわけか渡し場のあたりに集ってくるようである。  渡し場がこのように好まれる理由は何であろうか。  まず第一には、ともかく人びとが集まる所であるということが考えられよう。川を渡るというのは、昔の人びとにとって、たいへんやっかいなことであった。昔は、道はたくさんあっても、中規模以上の河川になると橋がほとんどなく、また浅瀬をたどるというわけにもいかず、どうしても、数少ない渡し場に頼らざるをえなかった。渡し場で勤労奉仕のようなことをしてくれれば、人びとは大助かりである。  第二には、そこがほかならぬ渡し場であるということが考えられる。「渡す」ということばは、「|度《ど》す」ということばを連想させる。そもそも「度す」と「渡す」は同じことを意味するし、また、仏教語の「度す」とは、迷いと苦しみの|此岸《しがん》から、|寂静《じやくじよう》の|彼岸《ひがん》に|衆生《しゆじよう》を「渡す」ことである。渡し場も、こちらの岸からあちらの岸に人びとを渡すためのものである。衆生を救いたい、つまり「度したい」と思う隠遁の士が、ことさら渡し場を好んだのは、こうしたあたりの連想が働いたからである。と、こう考えても、あながち考え過ぎであるとはいえないであろう。  理満は|河内《かわち》の国の人である。伝不詳で、両親も生没年も分からない。ただ、吉野山の|日蔵《にちぞう》(本書の「仙人群像」の項を参照されたい)の弟子であったというのであるから、九〇〇年代の後半に活躍した人であるということは推測できる。  さて、理満は、心に道心を|発《おこ》して以来、献身的に日蔵に師事し、いかなることであれ労苦を惜しまず働き、日蔵の覚えもめでたかった。ただ、あるとき理満はこう思った。自分は世を厭うて仏道の修行を積んできたが、悲しいかな凡夫の身、いまだに煩悩を断つに至っていない。もしも愛欲の心が生じたならばと思うと自信がない。未然に愛欲を遮断するために、|不発《ふほつ》の薬(精力減退剤)を服用したいものだ、と。  そこで師の日蔵にこのことを願い出たところ、理満の慎み深く温厚な人柄を|閲《けみ》した師は快くこれを了承し、その薬を求めて理満に服用させてくれた。果たせるかな、その薬の効き目が現われ、それまでほとんどなかったに等しい女人を思う心が、いよいよ完全になくなった。  このときから、理満は、昼と言わず夜と言わず、法華経をひたすら|読誦《どくじゆ》することをもって一生の仕事と思いなし、居処を定めぬ流浪の生活を送りながら修行に励むことになった。  あるときは、渡し場に船を渡すことこそ、測り知れない|功徳《くどく》になると考えつき、|大江《おおえ》(淀川の下流、今日の大阪の中之島あたり)に赴き、船をしつらえ、渡し守となって、往還の人びとを渡す仕事に従事した。またあるときは、京に上り、|悲田院《ひでんいん》に収容されている病人たちを慰問し、その人たちの望むものを探し求めてはこれを与えた。このようにして、行く先々でさまざまの利他の行を積んだのであるが、その間にも、法華経の読誦は決して怠ることがなかった。理満は法華の持経者になったのである。  こうした長年の修行の末、理満は数々の|験力《げんりき》を発揮したけれども、人前でこれを見せることはなく、また、そのことを人に語ることもなかった。  さて理満は、京のある篤志家の小屋に宿って、一、二年の間、法華経の読誦に専念していた。|主《あるじ》の篤志家の家はそのすぐ隣にあった。あるとき主は、理満の読経の様子を見ようと思って、こっそりと小屋の中を覗いてみた。そのときに主が見たのはこういう光景であった。  理満は、経を読むための机を前に、法華経の巻物を手にしてこれを読誦していた。ところが、一巻を読誦し終わってそれを机の上に置き、次の巻を手に取って読誦し始めると、すでに読誦した前の巻がみずから一尺ばかり躍り上がり、勝手にくるくると巻き返ってから、また机の上に舞い戻るのである。主は、これを見て、何たる奇異ぞと感嘆し、あたふたと理満の前に進み出て一心に合掌し、ことばももどかしげにこう言った。 「|畏《おそ》れ多くも、|聖人《しようにん》はただのお方ではなかったのでございましたか。この経を躍り上げて巻き返し、また机に置くなどということは希有のことでございます」  理満は、これを聞いておおいに驚き、主を戒めてこう語った。 「これは、拙僧が意図して起こしたことではござらぬ。現実のことではなく、幻のなせる仕業でござる。ゆめゆめ、他の人にこのことを告げてはなりませぬ。もしもこのことが他の人に知られたならば、いつまでもお恨み申し上げますぞ」  主は、このことばを聞いて深い恐れを覚え、理満が存命の間は、このことを誰にも口外しなかった。この話は、この主が、理満の滅後に語ったものである。(『大日本国法華経験記』上の三五、『今昔物語』一三の九、『三外往生記』二) 『元亨釈書』は、理満伝(および|叡桓《えいかん》伝)に対する賛の中で、 [#ここから1字下げ] 「およそ法華の持経者は、たまたま勝れた能力を一つでも身につけると、|欣喜雀躍《きんきじやくやく》して黙ってはいられなくなり、人びとに自慢げに言いふらし、異をてらい、奇を誇るものである」 [#ここで字下げ終わり] というように、法華の持経者たちの風潮を嘆いた後、 [#ここから1字下げ] 「これに対して、理満公は、(たまたま自分の験力を目撃してしまった)檀信徒を戒めるのに、(もしも口外すれば)絶交するということばをもってした」 [#ここで字下げ終わり] と、称讃している。  釈尊の時代にも、|神通《じんずう》(力)を発揮した修行僧はたくさんいたという。釈尊自身がそうであるし、弟子の|目※[#「牛+建」、unicode728D]連《もくけんれん》は神通第一と呼ばれている。また、|摩訶迦葉《まかかしよう》は、遠方の地にいながら、釈尊の入滅を、神通によってただちにキャッチしている。釈尊は、このように、神通を得たり、また、それを発揮すること自体については、何もこれといった規制を加えはしなかったが、ただし、みだりに在俗の人にそれを見せびらかすことは、堅く禁じたという。理満は、こうした釈尊の戒めを忠実に守ったことになるのである。  また、経の巻物が躍り上がって勝手に巻き返るという奇異は、『大日本国法華経験記』上の一一の中にも見られる。  なお、理満が服用したという不発の薬が何であるのかはよく分からない。ただ、昔の医学書である『医心房』(二八)には、内服薬ではないが、塗り薬の陰萎剤の製法が載せられている。といっても、筆者が見たのは、『大日本国法華経験記』の校訂本の頭注に漢文のまま引用されただけのものなので、また、筆者は漢方とか漢方薬とかについては無知であるので、はなはだおぼつかないかぎりであるが、だいたいこういうことらしい。 [#ここから1字下げ] 「葛氏の伝える医方に言う。陰を萎弱(インポテンツ)ならしめるための処方はこうである。すなわち、水銀と|鹿茸《ろくじよう》(鹿の袋角)と巴豆(?)をおおまかにつき砕いて粉にし、真麋(となかい?)の脂を混ぜ、これを陰茎と陰嚢に塗り付け、布でこれを包む。もしも脂が強いようであったら、小麻の油(要するにふつうの麻の実から採った油のこと?)でざっと|煎《い》ってもよい。こうすれば、|宦官《かんがん》とまったく同じようになれるのである」 [#ここで字下げ終わり]  ここで鹿茸が使われるというのも面白い。というのも、素人の筆者の聞き知っているかぎりでは、鹿茸の粉末は精力剤だからである。毒(精力剤)をもって毒(精力)を制すというわけであろうかと思ってみたりもするが、知らないことをいくら考えてもしかたがない。  ただそれにしても、仏道修行のために薬(ドラッグ)を用いたというのは、わが国ではかなり珍しい部類に入るのではないだろうか。本書の陽勝の項でも少し触れたが、わが国ほど、昔からドラッグに対して無関心だったところはないのではないかと思われる。  例えば、せっかく道教が取り入れられても、わが国の人びとは、不老不死の霊薬を探索したり開発したりするのに、まったくといってよいほど熱意を示さなかった。また、|阿片《あへん》やヘロインの原料となる|芥子《けし》は、少なくとも戦前まではあまり規制が厳しくなく、山村などでは公然と栽培されていた。ところが、こうやって芥子を栽培していた人びとも、それから阿片などを抽出して春の気分を味わおう(もちろん、そのようなことをすればやがては廃人になってしまうのが落ちであるが)などとは思わず、せいぜい、芥子の実の殻を煎じて咳止めに用いた程度である。  これはいったいどういうことなのか、「民族ドラッグ学」(ethnology of drugs)ともいうべき分野を研究している人がどこかにいらっしゃるのならば、ぜひご教示いただきたいところである。  理満の最期については、次のような話が伝えられている。  理満は、もしも法華経の威力によって極楽に生まれることができるのであるならば、釈尊が入滅された二月十五日に、この娑婆世界と別れたいものだと、朝に夕に語るのを常としていた。聖人は、一生の間に、法華経を読誦すること二万余部、悲田院の病人に食物、薬を供養すること十六回に及んだ。  ついに最期に臨んで、さすがの理満もいささかの病にかかったが、重病というほどのものではなかった。そして、長年の念願がかなって、二月十五日の夜半に至って、口に法華経の「|見宝塔品《けんほうとうぼん》」の、 [#ここから2字下げ] |是名持戒《ぜみようじかい》 |行頭陀者《ぎようずだしや》(これを、戒を持し|頭陀《ずだ》を行ずる者と名づけるのであるが) |則為疾得《そくいしつとく》 |無上仏道《むじようぶつどう》(このような人は、速やかに無上の仏道に達するであろう) [#ここで字下げ終わり] という|偈文《げもん》を読誦しながら入滅した。(『大日本国法華経験記』上の三五、『今昔物語』一三の九、『三外往生記』二)  |西行《さいぎよう》が、 [#ここから2字下げ] 願はくは花の下にて春死なむその|如月《きさらぎ》の|望月《もちづき》のころ [#ここで字下げ終わり] と詠い、その歌の願いの通り、釈尊入滅の二月十五日に他界したという話は有名であるが、理満は、いわばその先輩格に当たるということになろう。 [#改ページ]   |千《せん》 |観《かん》  日本仏教史について多少本でも読んだことのある人ならば、わが国の浄土教は、天台の四種三昧の一つとして、|常行《じようぎよう》三昧というものが|円仁《えんにん》によって比叡山にもたらされたときに始まり、|空也《こうや》によって多方面に広まり、|源信《げんしん》によって「|厭離穢土《えんりえど》、|欣求浄土《ごんぐじようど》」のおおまかな理論づけが行なわれ、|法然《ほうねん》によって易行道としての念仏をもっぱらとするという形態が生み出され、|親鸞《しんらん》によってその形態が徹底された、というように理解していると思う。つまり円仁—空也—源信—法然—親鸞という線に沿って発展したというわけである。  こうした理解は、それはそれで正しい理解でけっこうなのであるが、これだけでは第一つまらないし、また当たり前のことではある。ところが、右に挙げられた人びとの隙間や周辺に、おびただしい浄土教の推進者たちがいて、じつに生き生きとした興味深い逸話が数多く伝えられている。  ここで取り挙げる千観も、そうした逸話が伝えられている人物の一人である。今日では、源信や法然、親鸞の人気の陰に隠れてあまり有名ではなく、日本仏教史の概説書の類には名前すらも登場しないことがある。しかし、ほんの少しばかりでも調べてみると、あんがいに重要な人物であり、昔の人びとの間ではかなりの人気を博していたことが分かる。  さて、千観は、延喜十八年(九一八年)に、|相模《さがみ》の国の国司、橘|敏貞《としさだ》の子として生まれた。  伝えるところによると、この敏貞夫婦には、なかなか子供が授からなかった。夫婦ともども子宝を願って、あらゆる願いを|掬《すく》い上げてくれるという千手観音の像に熱心にお祈りした。その甲斐あって、妻はある夜、一茎の蓮華を手に入れた夢を見、めでたく懐妊というしだいになった。  |十月十日《とつきとおか》の月満ちて、無事、男子が誕生した。夫婦は、感謝の念をこめて、「千手観音」から字を拾い、この子に「千観」という名前を付けた。(あるいは、出家してから千観と名乗った。)(『日本往生極楽記』一八、『今昔物語』一五の一六、『元亨釈書』慧解二の三、『扶桑隠逸伝』中)  千観は、やがて出家し、|三井《みい》にある天台宗|寺門《じもん》派の本拠、|園城《おんじよう》寺に入った。そして、そこで顕教と密教の双方を精密に学び、世に並ぶ者なしといわれるほどの、たいへんなエリート学問僧として不動の名声をものにし、役職としては|内供奉《ないぐぶ》(略して|内供《ないぐ》、|供奉《ぐぶ》。宮中の内道場に出入りする高僧のこと)に任ぜられるところまで進んだ。  千観は、もともと道心の深い人ではあったけれども、どのように身を処して、どのような行ないをすべきかということを、とくに心に思い定めるというわけでもなく、ただ漫然と、あるいは惰性的に、学問僧としての日常生活を続けていた。エリートであるという自己満足もあったかもしれないし、また、そういう生活を送っていて、とくに他からとやかくいわれるような筋合いではないという状況でもあった。  しかし、心の奥の方では、このようなことで出家した甲斐があったと言えるであろうか、何か進むべき道が違っているのではないかというような疑問が、絶えずくすぶっていたのではないかと思われる。そういう、何かはっきりしない感じを根底から払拭するような出来事に、千観は、ついにある日突然出くわしたのである。その出来事とは、空也との出会いであった。  それは次のようなものであったという。  ある日、千観は朝廷から|法会《ほうえ》(あるいは講論)に召された。その帰り道、四条河原を通りかかったとき、たまたま空也上人の姿を目にした。これが近頃評判の空也上人かという好奇心も多少はあったかもしれないが、やはり何か得るところがあるのではないかという思いがふっと込み上げて、とうていそのまま通り過ぎる気にはなれず、車から下りて上人に対面した。  千観内供はこう尋ねた。 「そもそも、どのようにいたしましたならば、来世に救いを得ることができましょうか」  上人は、これを聞いて、いかにも解せないという顔つきで、いささか突き放すような口調でこう答えられた。 「いやはや、何をさかさまのことを仰るのやら。そのようなことは、逆に拙僧の方から、御房のようなお方にこそ、お尋ねしたいものでござりますな。拙僧のような下賤の身といたしましては、ただもう、わけも分からず迷い歩くばかりでござります。こうだというようなものは、少しも会得してはおりませぬわ」  こう言って、さっさと歩いていっておしまいになろうとするのを、千観は、袖をつかまえて、なおも熱心に問い続けた。千観としては、一片ほどはあったかもしれない等閑の心など、あたかも雷に直撃されたように、微塵も残さず吹き飛んでしまったのである。今や千観も必死である。  そこで上人は、 「ともかくも、身を捨ててこその話でござろう(いかにも身を捨ててこそ)」 と、ただこの一言だけを発し、千観を振りほどいて、足早に去っていかれた。  これで心は決まった。千観は、その場で麗々しい装束を脱いで車の中に入れ、 「供の人は、早く住坊に帰りなされ。拙僧は今より、他の所に行こうと思う」 と言って、皆を返し、ただ一人、|箕面《みのお》という所に赴き、そこに籠ってしまった。(『発心集』一の四)  箕面というのは、|摂津《せつつ》の国の箕面の山のことで、昔から、遁世の士が数多く隠れ住んでいたことでよく知られている。|勝尾《かつお》寺、|滝安《りようあん》寺などの|古刹《こせつ》があるが、千観が籠居したのは観音院という所であったらしい。千観は、ここで、念仏三昧の生活を送るかたわら、著作に励んだ。  千観の著作には次のようなものがある。法華経に対する天台大師、|嘉祥《かじよう》大師、|慈恩《じおん》大師の三大師の注釈を対照して見やすくした『|法華三宗相対釈文《ほつけさんしゆうそうたいしやくもん》』、大乗仏教の|菩薩道《ぼさつどう》に立脚して十の大願を起こし、それに注解を施した『|十願発心記《じゆうがんほつしんき》』、浄土教関係の経典の文句や趣旨を七五調の今様のスタイルで歌い上げた|和讃《わさん》本である『|阿弥陀讃《あみださん》』、病気でないかぎり定例の勤行を怠ってはならないとか、もっぱら|興法利生《こうほうりしよう》(法を広め、|衆生《しゆじよう》を救済すること)と往生極楽とを求めなければならないといった出家生活の戒めを説いた『|可守禁八箇条事《かしゆごんはちかじようのこと》』などがそれである。  さて、千観は、いつまでも箕面の山に籠り続けたわけではなかった。史実としても、里に下りて|金龍《きんりゆう》寺の|開山《かいさん》になったということになっている。そして、果たして本当であったかどうかは例によって不明であるが、この金龍寺が建立されるに至る因縁を説く、以下のような面白い逸話が残されている。  千観は、箕面の山を去り、同じく摂津の国の安満という所に移り、そこに小さな庵を結んだ。  千観は、その庵に籠りきりであったわけではない。しばしば淀川の渡し場に出向き、みずから馬引きになって、無料で荷物などの運搬の労をとった。このありがたい、しかしずいぶん珍奇なお坊さんが、かつては園城寺のエリート学僧だったと聞かされて、誰がにわかに信ずることができたであろうか。それほどの様変わりであった。 [#挿絵(img/fig11.jpg)]  千観は、生まれつき心優しく、慈愛に満ちた人であった。どのようなことがあっても、かっとしたり、むっとしたりという、怒りの表情を見せることがなく、いつもにこにこと微笑を絶やさなかった。  千観が里人たちに慕われるようになるのに、それほど時間はかからなかった。やがて庵は、千観の人柄に魅かれた里人が、何やかにやで集まるところとなった。そしてとうとう、みずから望んだわけではまったくなかったのに、いや、おそらく固辞したに違いないのであるが、里人たちの方で衆議一決、寄ってたかって立派な寺を建ててしまった。この寺を金龍寺という。  永観元年(九八三年)十二月、千観は六十六歳の生涯を終えた。  千観の遺徳を偲ぶ人びとによって、千観の像が造られた。この像は、生前の千観と同じように、顔に微笑を湛えていた。そこで人びとは、この像を「|笑仏《わらいぼとけ》」と呼ぶようになったということである。(『扶桑隠逸伝』中)  ちなみに、千観が著した『阿弥陀讃』は、 [#ここから2字下げ] |裟婆《しやば》世界の西の方 十万億の国すぎて 浄土あるなり極楽界 仏|在《まし》ます|弥陀尊《みだのそん》 [#ここで字下げ終わり] という調子で始まっていて、まことに平易で分かりがよく、昔はなかなか人気があったらしい。  そもそも、この『阿弥陀讃』は、ほぼ同時代の源信の『六時讃』と並んで、和讃の最初期に属する。以来、和讃は、民衆教化のための重要な手段として、多くの人びとによって作製されるようになった。あの親鸞上人も、『浄土和讃』『高僧和讃』『|正像末《しようぞうまつ》浄土和讃』など、今日でも愛唱されている傑作を遺している。同一人物の他の著作ではもう一つ理解できないことがらでも、こうした和讃が頭に入っていると、少なくとも心情的にはたいへんよく理解できることが往々にしてある。これが和讃の力というものである。  このような浄土教の普及に甚大な貢献をした和讃の先駆者であったということを考えると、先の「円仁—空也—源信—法然—親鸞」の線は、「円仁—空也—千観と源信—法然—親鸞」というように修正したい気持にさせられるが、まあ、いかがなものであろうか。 [#改ページ]   |平《びよう》 |等《どう》 『発心集』(三の四)の平等|供奉《ぐぶ》の伝の末尾に、作者|鴨長明《かものちようめい》はこう書いている。 [#ここから1字下げ] 「今も昔も、まことに道心を|発《おこ》した人は、このように|故郷《ふるさと》を遠く離れ、見知らぬ土地で、いさぎよく名利を捨てて死んでいくのである。無常を超絶し、|不生不滅《ふしようふめつ》の真実を明らかに知って心が不動になる|菩薩《ぼさつ》の|無生法忍《むしようほうにん》という境地を得たほどの人でも、顔見知りの人の前では、|神通《じんずう》を発揮することすら難しいと言われている。ましてや、今しがた発したばかりの道心は、それはそれで尊いのであるが、まだまだ最高の不退転の境地には至っていないのであるから、何かにつけて乱れやすい。故郷に住み、知っている人びとの中に交じわっていては、どうして一瞬の妄心を起こさないでいられるであろうか」 [#ここで字下げ終わり]  ここで言われる「故郷」というのは、もちろん、文字通りの出身地としての故郷でもあるが、出家にとっては、長年住んだ山、寺院をも意味している。とくに平安時代には、|後世《ごせ》のことに思いをいたす士は、世俗の生活を捨てて山に入りながらも、またその山を捨てて隠遁しなければならなかった。いわば、二重の出家が必要だったわけである。これは、比叡山を筆頭とする山が、世俗の権力と癒着して腐敗していたということにもよるし、また、それだけ末法意識が強かったということも示している。  ここで取り挙げる平等は、|廁《かわや》で遁世の決意を突然固め、そのまま出奔して|乞食《こじき》になったという奇抜な逸話の持ち主である。この平等が、後の世の隠遁志向の人びとによって深く敬愛されていたことは、『発心集』での取り扱われ方からも推察できる。『発心集』の初めの方の部分は、第一話と第二話が|玄賓《げんぴん》、第三話が平等、第四話が|千観《せんかん》、第五話が|増賀《ぞうが》、というような配列になっている。たまたまというか、必然的というか、玄賓も千観も増賀も、すでに本書で取り挙げた、魅力あふれる逸話に彩られた人物である。その中に、平等が割って入っているというわけである。  平等(または平燈)は、その出生も生没年も不明であるが、いちおう、九〇〇年代の末頃に活躍していたのではないかと考えられているようである。その逸話は以下の通りである。  少し前の時代、比叡山に、平等供奉という貴い人がいた。  あるときのことである。廁に籠っていたとき、世の中が、朝日に消える露のように無常であることをさとる心がにわかに起こった。このようにはかない世の中に、名利にのみほだされて、本来ならば厭うべき不浄の身を惜しみつつ、どうして空しくも明かし暮らしてきたのであろうかと思い始めると、今までのことも悔やまれ、長年住み慣れた所もうとましく感ぜられた。もはや二度と再びここに帰ってくることはあるまいと思い定め、下着の|白衣《びやくえ》に足駄というそのときの出で立ちのまま、衣などを着ることもなしに、これといったあてどもなく飛び出して、とりあえず西の坂(|雲母《きらら》|坂《ざか》)を下り、京に向かった。  しかし、どこに落ち着こうという気もなかったので、そのまま足の向くのにまかせて、|淀《よど》(宇治川、桂川、木津川が合して淀川となる所)のあたりにふらふらと歩き着き、そこの渡し場から、下りの船に乗ろうとした。船賃の持ち合わせもなく、また、世の常とも思えぬ顔つきをしていたため、船頭はいったんは乗船を拒否した。しかし、平等のただならぬ真剣な様子を見て、結局は乗せてやることにした。  船頭は、平等が漂わせている気配に押されて、やや丁寧な口調で訊いた。 「さてさて、どのようなご用事で、どこまで行かれるおつもりですか」  平等は答えた。 「ことさらこれという決まった用事があるわけではござらぬ。また、ここといって目指して行き着くような所もござらぬ。ただ、いずこなりとも、そこもとたちの向かわれる所に下ろうと思うのみでござる」  これを聞いた船頭たちは、何だかよく分からぬことだ、どういうつもりなのであろうかと、互いに首をひねり合っていたが、荒くれながらもさすがに人情がないわけではなかったので、その船の目的地である|伊予《いよ》の国まで、平等を乗せていってやった。  伊予の国に着いた平等は、時をかまわずさまよい歩き、家々の門口で|乞食《こつじき》をしながら日を送っていた。ただ、風体からしてとても立派な出家とは見えなかったため、人びとは、「|門乞食《かどこじき》」と名づけて|蔑《さげす》んだ。(文字では同じ「乞食」でも、「こつじき」と「こじき」では大違いである。)  一方、比叡山の平等の坊では大騒ぎであった。弟子たちは、 「ちょっとお出かけになったかと思うと、そのままずっとお戻りにならない。いったいどうなされたのであろうか」 などと語り合っていたが、まさかこのような次第であるとは、とても思いも寄らなかった。何かわけでもおありになるのであろう、などと言っているうちに、とうとう日も暮れ、そして夜も明けてしまった。これはいくら何でもおかしいと、驚いてあたり一帯を捜し求めたが、手がかりすらもない。結局どうしようもなく、弟子たちは、平等を亡きものと思い、泣く泣く平等を弔う仏事を執り行なった。  ところで、伊予の国の国司(一説によれば、長徳元年〔九九五年〕頃に|伊予守《いよのかみ》として在任していたという藤原|知章《ともあきら》)は、平等の弟子の|浄真阿闍梨《じようしんあじやり》という人と長年にわたって親交があり、しばしば祈祷を頼んだりしていた。そこで、京から伊予に下るというときに、遠方の地なので、ご同道願えれば心強いといって、阿闍梨を伴って下向した。  さて、かの門乞食の平等は、そのようなこととはつゆ知らず、伊予守の館の中に入っていった。物を乞うていると、子供たちがぞろぞろと後ろについてきて笑い騒ぐ。その場に居合わせた大勢の人びとも、何という恰好をしておるのだ、とっとと出ていけと、きつく叱りつける。このありさまを見た阿闍梨は可哀想に思い、物などをやろうと、その乞食を真近に寄び寄せた。  恐る恐る縁の際まで寄ってきた乞食を見ると、まるで人間とは思えない姿である。いたいたしいほど痩せ衰え、ぼろがあちこちから垂れ下がっているような綴り合わせの衣を一枚引き被っただけの出で立ちで、まことにみすぼらしい。しかし、どこか見覚えがあるように思われたので、よくよく見つめて考えてみると、何とわが師ではないか。胸があふれる思いで、簾の内からころがるように飛び出し、師の手を取って縁の上に上がらせた。  伊予守をはじめ、そこに居合わせた人びとは、みな驚き怪しむばかりである。阿闍梨は、事の次第を泣く泣く語ったが、平等の方は終始ことば少なく、そしていきなり無理やり|暇《いとま》を乞うて、足早に去っていってしまった。  阿闍梨は、あまりのことに呆然自失といったていであった。ややあって気を取り直し、急いで麻の衣などを用意して平等の後を追いかけ、そこここを捜し歩いたが、どうにも見当たらない。果てには、地元の人びとにまで声をかけ、山であれ林であれ、至らぬ隈なしというほど捜し求めたけれども、無駄であった。結局そのまま、平等は跡をくらまし、ついに行く末も分からなくなってしまった。  その後はるかに時を経て、ある山人が、人も通わぬ深山の奥の清水のある所に死人がいると報告しにきた。これを聞いた阿闍梨は、もしやという思いに駆られ、その山人の行った所を尋ねてみると、そこには、平等が西に向かって端坐し、合掌したまま入滅していた。まことに貴いことだと心を打たれながら、阿闍梨は泣く泣く弔いを行なった。(『発心集』一の三)  この話は、『今昔物語』(一五の一五)と、まったくと言ってよいほど同じであるので、ここでは、『今昔物語』が『発心集』と異なる点、および、『発心集』にはなく『今昔物語』にはある話についてだけ、それも主だったものだけを、ごく簡単に記しておくことにする。 (一)まず、主人公は、平等ではなく、|長増《ちようぞう》(伝不詳)である。また、やはり比叡山の僧であるが、東塔にいて、|名祐律師《みようゆうりつし》(応和元年〔九六一年〕入滅)を師としていたことになっている。 (二)伊予の国に下った弟子は|清尋《しようじん》供奉、伊予守の名は藤原知章。 (三)門乞食の長増が入りこんだのは、伊予守の館ではなく、伊予守が清尋のために新築した房である。 (四)そのときの風体はというと、縁がぼろぼろになった真黒な|田笠《たがさ》を被り、腰のあたりまでぼそぼそと垂れ下がっている|蓑《みの》を懸け、いつ洗ったのか分からないような粗末な|単衣《ひとえ》を二枚重ねにして着、|藁沓《わらぐつ》を片足に履き、竹の杖をついていたとある。 (五)師弟の再会の場面で、弟子の清尋だけでなく、師の長増も、感涙にむせびながら、何やかやと話をしている。 (六)長増が西に向かったまま入滅していたのは、伊予の国のある古寺の裏の林の中であった。  その他、全体として『今昔物語』の方がディテールに富んでいるが、それが説明的に過ぎ、稀代の人物の逸話の興趣を、かえって|殺《そ》いでしまっているという印象を免れない。つまり、話としては『発心集』の方がはるかに面白くできていると言えるようである。    〔付〕桃 水  隠遁して|乞食《こじき》同然の生活を送るというのは、名利を厭うほどの人ならば、一度は憧れるところである。平等はそれを実行したし、また、すでに紹介したように、空也もそれに似たようなことをしていたと伝えられている。近世には、|願人《がんにん》坊主という、出家の姿形をまねながら、その実ゆすりたかりを生業とする、|乞食《こじき》の風上にも置けない|乞食《こつじき》がはびこったが、それは論外として、|乞食《こつじき》志向の伝統は脈々として受け継がれてきた。  近世におけるその典型は、有名な『近世畸人伝』で取り挙げられている桃水であろう。時代的に本書の枠をはずれるが、ともかく面白いので紹介することにする。  僧桃水は、|諱《いみな》を|雲関《うんかん》という。|筑後《ちくご》の国の人で、|肥前《ひぜん》の国は島原の禅林寺の住職(和尚)をしていた。あるときいきなり出奔した後、その行方を知る者は誰もいなかった。  ところが、ここに桃水に帰依していた尼がいて、国を離れ、方々を捜し歩いていたが、その甲斐あって、ついに師の桃水を見つけ出した。そのとき桃水は、|菰《こも》を被っていて、また同じような様をしている乞食の病人を介抱しているところであった。  尼は、涙を流しながら桃水を礼拝し、背負っていた寝具を取り出して桃水に進呈した。これは、和尚のためにとみずから紡ぎ、年月かけて織り上げたものである。ところが桃水は、今の身にとっては用のないものであると言って、これを受け取らなかった。しかし尼もさるもの、ご自身でお使いにならないのでしたら、御心にまかせてどのようにでも処分なさって下さい、師に供養したものであるからには、ただちにお捨てになっても恨みには思いませぬ、と言う。  それならばと桃水はこれを受け取り、そのまま、病んでいる乞食に懸けてやった。これを見た他の乞食たちはおおいに驚き、この人はただのお方ではないと言ってにわかに崇め尊んだものであるから、桃水はこれを嫌ってそこからも立ち去ってしまった。  一方、桃水のかつての愛弟子であった二人の僧も、尋ね求めること三年にして、安井門の前で、乞食の群れの中にいる師を見つけた。そこで、師の後について人のいない所に来たとき、師がこのようでいらっしゃるのであるならば、われわれも同じ姿に身を変えて従いましょうと懇願したが、桃水はこれを許さなかった。 [#挿絵(img/fig12.jpg)]  一人は諦め、師の教示を受けて他の僧の指導を仰ぎに去っていったが、もう一人はどうしても諦めない。そこで桃水は、それならば、わしのするところを見るがよいと、死んだ乞食が横たわっている所にその弟子を引き連れてゆき、さっそく、弟子とともにこれを埋葬した。それから桃水は、その死者の食い残した食べ物をまず自分で食した後、どうだ、お前も食わぬかと弟子を促した。弟子は、しかたなくこれを口にしたが、その悪臭と穢なさに堪えることができず吐き出してしまった。これを見て桃水は、だからこうした世界にお前は堪えることができないのだ、今を限りに別れることにしよう、と告げて去っていってしまった。(『近世畸人伝』一)  これから後、桃水は、大津の駅でわらじを作って売ったり、京の北の|鷹峰《たかみね》で酢を商ったりしながら、遁世、隠逸の道を歩み、天和三年(一六八三年)九月に|遷化《せんげ》したという。まことに徹底した名利嫌いぶりで、いささか偏屈という感じがしないでもないが、ここまでやり通すというのも、やはりたいしたものだと言うべきであろう。 [#改ページ]   |東《あずまの》 |聖《ひじり》  |平等《びようどう》や|桃水《とうすい》は、|乞食《こじき》にまで変身してその名跡を隠した。その苦労、配慮は並みたいていのものではなかったはずであるが、いずれもいったんは弟子などによって発見されている。それから再び行方をくらましているとはいえ、入滅したときには、この|遺骸《なきがら》は誰のものであるかということが分かってしまっている。名跡を完全に断つというのは、存外に至難の業である。  こう考えると、ここで取り挙げる東聖という人は、この至難の業を成し遂げた希有の人ということになる。きわめて短い伝記しか残されておらず、以下に紹介する話がともかくすべてである。なお、この人は、『扶桑隠逸伝』における配列順から推して、平安時代の中頃あたりの人であるらしい。  東聖は、みずからの在俗時の姓名を名乗ることがなかった。また、この人の出身地がどこであるのか誰も知らなかった。ただ、|東《あずま》の方に住んでいるからということで東聖と呼ばれていたにすぎない。ただ独り山中に起居し、いつも草の庵を閉ざして、人の来訪を拒絶していた。東聖は、およそ蓄えというものを持ったことがなかった。仏像もなければ経典すらもなかった。これほどの徹底ぶりであるから、他のものについても推して知るべしといったところである。  あるとき東聖は、自分の死期をあらかじめ察知した。そこで、深山に分け入り、柴を積んでみずから火をつけた。そのとき、和歌を作って火打箱に書きつけ、また、みずからの|荼毘《だび》の模様を記した。数日の後、たまたま山に入る人がいて、はじめてこれを見たという。(『扶桑隠逸伝』中) 『扶桑隠逸伝』の作者である|深草《ふかくさ》の|元政《げんせい》上人は、この東聖の話に対して、次のような賛を付けている。『扶桑隠逸伝』に記されている賛の中では、もっともストレートで明快な部類に属するので、原文(漢文)の訓読をそのまま出すことにする。 [#挿絵(img/fig13.jpg)] [#ここから1字下げ] 「賛に曰く。甚しいかな、東聖が跡を没すること。|其《そ》の姓名を没し、其の郷里を没し、其の形影を没し、あまつさえ其の死を没す。ああ、東聖が如きは、鬼神も伺い|視《み》ること|能《あた》わじ」 [#ここで字下げ終わり]  この圧巻ともいうべき賛を前にして、筆者が付け加えることは何もない。したがって何も書かない。  さて、それはそれとして、この東聖にきわめてよく似た逸話の持ち主がある。『拾遺往生伝』に出てくるこの人の話は以下の通りである。  とある上人がいたが、その名は不明である。この上人は、康平年間(一〇五八〜一〇六四年)に、阿弥陀の峰の裾のあたり(|鳥辺野《とりべの》)において、みずから身を焼いて入滅した。そこで、これを崇め尊ぶ貴賤男女、|結縁《けちえん》を願う人びとが、その場に群がり集まった。  ところで、|慶寛《けいかん》という名の沙門がいて、京の北山に住して西方極楽浄土に憧れ、天台の|一心三観《いつしんさんかん》とか四種三昧を行じていた。慶寛は、このとき、|施無畏《せむい》寺の東のほとりに一室を構えて|常行《じようぎよう》三昧(四種三昧の一つで、念仏三昧のこと)を修していたが、そのうちにうとうととして夢を見た。その夢はこうであった。  はるか西方から、妙なる楽の音が流れてくるかと思うや、ある人がこう告げた。お前はこの楽が何のためのものであるか知っているか。これは、今日、阿弥陀の峰において、焼身上人を来迎するための儀式の楽なのである、云々、と。  はっとして夢から醒めて、窓を開け、目を挙げて、遠くのかの峰を望むと、深緑色の煙が上がり、五色の雲が西の空にたなびいていた。まさに、かの上人が身を焼いたときであった。(『拾遺往生伝』中の五)  身を焼くという行為は、もともとは法華経の「|薬王菩薩本事品《やくおうぼさつほんじぼん》」に、|喜見菩薩《きけんぼさつ》(|一切衆生《いつさいしゆじよう》喜見菩薩)が身を焼いて諸仏への供養とした、また、これこそが最高の供養である、と説かれていることによったものである。わが国では、熊野の那智山の沙門|応照《おうしよう》(伝不詳であるが、奈良時代の人であるらしい)が、この焼身供養を行なった最初の人であると言われている。その応照の焼身供養の次第は、次のようなものであったという。 [#ここから1字下げ] 「(焼身供養を決意してから)穀物を断ち、塩も甘味も食せず、松の葉を食膳とし、風水(雨水?)を飲み、こうして内外の不浄を払い落とし、焼身供養の用意を|調《ととの》えた。焼身供養のときに臨んで、新しい紙の法服を着て、手に香炉を取り、薪の上に|結跏趺坐《けつかふざ》して真直ぐに|西方《さいほう》に向かい、諸仏を|勧請《かんじよう》し、|願《がん》を|発《おこ》して言った。自分はこの身心をもって法華経に供養し、頭頂をもって上方の諸仏を供養し、足をもって下方の|世尊《せそん》(仏の別称)に奉献しようと思う。背の方は東方の|薄伽梵《ばぎやぼん》(仏の別称)が納受されんことを。前の方は西方の|正遍知《しようへんち》(仏の別称)が慈悲心をもってお受け下さらんことを。さらにまた、胸をもって釈迦大師に供養し、左右の脇をもって|多宝《たほう》世尊に施し、|咽喉《のど》をもって阿弥陀如来に奉上しようと思う。さらにまた、五臓をもって|五智《ごち》如来(|大日《だいにち》、|阿※[#「門<(人/(人+人))」、unicode95A6]《あしゆく》、|宝生《ほうしよう》、阿弥陀、|不空成就《ふくうじようじゆ》)に供養し、六腑をもって六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天)の衆生に|施与《せよ》しようと思う、云々、と。そこで|定印《じよういん》を結び、口に妙法を唱え、心に三宝(仏、法、僧)への信を起こした。やがて、身体は灰となったが、それにもかかわらず、経を唱える声は絶えず、いささかも乱れることがなかった。煙は悪臭を発することなく、|沈香《じんこう》と|栴檀《せんだん》を|焼《た》いたような香りがした。……」(『大日本国法華経験記』上の九) [#ここで字下げ終わり]  この他にも、越後の国の|鍬取《くわとり》上人(『大日本国法華経験記』中の四七)、|摂津《せつつ》の国の|忍頂《にんちよう》寺の大法師|源因《げんいん》(『拾遺往生伝』中の五)が焼身供養を行なったという話が伝えられているが、だいたい平安時代の中頃から、こうした凄絶な行がしばしば行なわれるようになったようである。  なお、全身にではなく、身体の一部に火を点して供養するというやり方もあり、広く行なわれている。代表的なのは、指に油を塗って火を点すというのと、|臂《ひじ》の上で香を|焼《た》くというものである。空也にも、臂の上で香を焼いたという逸話が伝えられている。  ちなみに、ヴェトナム戦争のさなか、当時の南ヴェトナムの仏教僧が、政府の寺院に対する抑圧政策に抗議して、白昼の路上で石油をかぶって焼身自殺を遂げた。これが、利他(衆生救済)のための立派な焼身供養であるとか、あるいは、政治的な抗議行動という俗事であるから、仏教でいう供養には当たらないとか、さまざまな議論が|戦《たたか》わされたことは、ご記憶の方も多いと思う。ともかくも人が一人命をかけたのであるから、とても軽々しく判断を下すことはできないが、そのときの南ヴェトナムの大統領夫人(キリスト教徒)が、これを評して「人間バーベキュー」と暴言を吐いたのは論外中の論外である。もっとも、この後ほどなくクーデターが起こり、この大統領夫人も国を追われる破目に陥ったのであるが。 [#改ページ]   |徳一《とくいち》と|行空《ぎようくう》  仏教の修行僧たる者は、衣食住のすべてにわたって少欲知足でなければならないとされる。何とか生きて修行ができればそれで十分なのであって、それ以上のものを衣食住に求めるというのは、無用の財を蓄えるということになり、修行への専念の妨げになるばかりである。また、出家は本来は遊行生活を送る者であったから、そもそもあまり多くを所持することはできなかった。  そこで古くは、|三衣一鉢《さんねいつぱつ》、坐具、|漉水嚢《ろくすいのう》の「|六物《ろくもつ》」だけが出家の財産であるとされた。三衣というのは、|上衣《じようえ》、|中着衣《ちゆうじやくえ》、|大衣《だいえ》のことで、黄褐色(サンスクリット語で「カシャーヤ」といい、これを音写したのが、「|袈裟《けさ》」)に染められた布を用いる。また、本来は、大便を掃除するのにしか使いようのないぼろ布を綴り合わせたもの(|糞掃衣《ふんぞうえ》)を用いるべきであるとされる。鉢というのは、毎朝、近隣の家々を回って|乞食《こつじき》を行なうときの持ちものである。また、漉水嚢というのは、文字通り水を漉すための布の袋のことである。これは、衛生のためというわけではなく、虫などの小動物を飲んで|殺生《せつしよう》を働いてしまうことを避けるために用いるのである。その他、きちんとした屋根のある家にではなく、樹の下などに住すべきであるなどとされた。  こうした、物への執着を離れた厳しい生活を送ることを、|頭陀行《ずだぎよう》といい、ある頃から、十二頭陀とか十三頭陀というように、守るべき項目がまとめられるようになった。釈尊の弟子である|摩訶迦葉《まかかしよう》は、頭陀第一と呼ばれている。  もちろん、この頭陀行は、わが国にも伝えられた。しかし、立派な僧房に住み、高価で色鮮やかな衣を着、朝廷や貴族からごっそりと食い扶持が布施され、乞食などまったく行なわないというのが、奈良時代、平安時代を通じて、わが国の出家のふつうの生活であった。したがって、徹底して粗末な衣食住に甘んずる出家がいれば、これはやはりたいしたものであった。  そのたいした出家の中から、すでに本書で取り挙げた人びとはそれとして、ここでは、とりあえず、徳一と行空の両者を見ておくことにする。  徳一(あるいは徳溢、得一)は、|恵美仲麿《えみのなかまろ》の子で、興福寺の|修円《しゆえん》のもとで法相唯識の学を修した後、東大寺に住していたが、ある事件に巻きこまれて東国に追いやられた。しかしやがて|常陸《ひたち》の国の|筑波《つくば》山に一寺を開き、学僧、信者を多数集め、東国における法相宗の一大拠点とした。  その徳一の生活ぶりは、次のようなものであったという。 [#ここから1字下げ] 「沙門たちが|奢侈《しやし》に走るのを苦々しく思い、|弊衣麁食《へいいそしよく》(くたびれた衣と粗末な食事)を常とし、少欲知足の淡々とした生活を楽しんでいた。長い|道程《みちのり》を行くときにも、決して|輿《こし》を用いず、老いぼれた牛が牽く車に乗ったり、痩せさらばえた馬に|跨《またが》っていった」(『元亨釈書』慧解二の三、『扶桑隠逸伝』上) [#ここで字下げ終わり]  この頭陀行の逸話はかなり有名で、たいがいの高僧伝の類に言及されているが、また例によって、この逸話に対する元政上人の賛を見ると、こうある。 [#ここから1字下げ] 「賛に曰く。弊衣麁食は仏教の旗印である。仏(釈尊)は、みずから粗末な大衣を着し、鉢を持ち、|錫杖《しやくじよう》を突きながら、歩いて|乞食《こつじき》をなさった。これは、|忍土《にんど》(|娑婆《しやば》世界)を|教化《きようげ》するための作法であって、|文殊菩薩《もんじゆぼさつ》や|弥勒《みろく》菩薩であっても、いわゆる|内秘外現《ないひげげん》ということで、内心は在俗の菩薩であっても、外見は出家修行僧(|声聞《しようもん》)のような振舞いをしていた。ああ、末世の出家は、いったい何様であるというのか。文殊菩薩や弥勒菩薩を超えようというのであろうか。今、せっせと|華服玉食《かふくぎよくしよく》(弊衣麁食の逆)をなす者は、徳一の行ないを見て、どうして恥じないことがあろうか」 [#ここで字下げ終わり] [#挿絵(img/fig14.jpg)]  みずからも、まさに弊衣麁食の頭陀行に邁進した元政上人の、深々とした嘆息が聞こえてくるような賛である。  万人の知るところであるが、この徳一は、法華経に|則《のつと》って一乗説を宣揚する最澄を相手に、法相唯識の三乗説の立場から、舌鋒鋭く、かつ執拗に論争を挑み、最澄をおおいに悩ませた。これは、「三一|権実《ごんじつ》」の論争と言われ、わが国の仏教史上まれに見る大論争であった。また、徳一は、空海の即身成仏説に対しても手厳しい批判を加え、空海がわが国に持ち込んだ密教は、仏教(とくに大乗仏教)にあるまじき教えであると主張している。わが国の古代の仏教界を代表する二人に噛みついた、まことに痛快無比な人物である。  徳一は、さらに会津にまでも教線を伸ばし、|慧日《えにち》寺という一寺を開いており、そこで最期を迎えている。このため徳一は、しばしば「会津の徳一」とも呼び慣わされている。生没年、享年ともに不詳。  さて、次は行空である。|法然《ほうねん》の弟子にも同名の人がいて|紛《まぎ》らわしいが、この行空は、生没年は不詳である。ただ、行空を取り挙げている『大日本国法華経験記』が十一世紀のなかば近くのものであるから、下限だけははっきりしている。遊行と頭陀行に徹したこの人の逸話は以下の通りである。  沙門行空は、世間の人びとによって「|一宿《いつしゆく》の|聖《ひじり》」と呼ばれている。法華経の持者であり、日に六部を|読誦《どくじゆ》し、夜にまた六部を読誦し、合わせて一日に十二部も読誦して、いささかも怠ることがなかった。  行空は、出家して道心を|発《おこ》してからというもの、住む所を定めず、しかも、一カ所に二晩続けて泊まるということすらなかった。ましてや、庵を結んで住するなどということはまったくなかった。かてて加えて、出家の最低限の所持品とされる三衣一鉢すらも持たなかった。持ち歩いていたものといえば、法華経ただ一部だけであった。  このようにして遊行しながら、五畿七道、六十余国、つまり日本全国、一つとして足を踏み入れなかった道も国もなかった。(『大日本国法華経験記』中の六八、『今昔物語』一三の二四)  行空が最後に放浪した所は九州であった。そして、九十歳になっても法華経の読誦を止めず、ついにめでたく極楽浄土に往生したという。  以上、「隠逸の人」というタイトルのもとに、頭陀行に邁進した人びとの逸話を|垣間《かいま》見てきた。ただ、「隠逸の人」とはいっても、おのずからその徳が外に向かって顕わになること自体を|厭《いと》うたわけではない人もいれば、おのずからであろうが何であろうが、ともかく徳が外に向かって顕わになることを避けてまわった人もいる。この両者に、あえて名称づけをほどこすとすれば、顕徳の人、陰徳の人ということになるが、そうすると、空也、千観、徳一は顕徳の人、教信、理満、平等、桃水、東聖、行空は陰徳の人という分類が可能になろう。 [#改ページ]   後 記  筆者は、インドの宗教、思想を研究するかたわら、まったく個人的な|愉《たの》しみとして(インドの宗教の理解にも多少は役立ったとは思っているが)、僧の伝記を含むいわゆる仏教説話の類(日本のもの)を長年愛読してきた。ときおり、興にまかせて説話の系譜を調べてみたり、好事家的な好奇心から、類似した説話を比較するのに熱中してみたりということはあったが、とくに整理して考えてみようと思ったこともなく、ましてや学問的な研究の対象にしたことなど一度もない。それが、いかにもこの分野の研究者であるかのごとき顔をして本書のようなものを執筆することになるとは、夢にも思わなかった。何か、天下に無知と恥をさらすような複雑な気分である。  本書を執筆するきっかけを作ってくれたのは、畏友の大野純一氏である。大野氏は、南インド生まれの孤高の哲人クリシュナムルティの著作の翻訳、紹介者として、現在、大活躍中の人で、筆者は、春秋社の編集部員として大野氏訳のクリシュナムルティの|浩瀚《こうかん》な著作を担当したとき以来、お付き合いをいただいている。この大野氏があるとき、古本屋に面白い本があったと言って、深草の元政上人(寛文八年〔一六六八年〕に四十六歳で寂)の『扶桑隠逸伝』を持ってこられた。筆者のまったく知らない本であったので、さっそく拝借して読んでみたところ、役小角から始まり、在俗の人も含めて七十五人の隠逸の人の逸話が、的確な賛とともにきわめて簡潔に記されていて、いずれもはなはだ面白い。後になって知ったのであるが、『近世畸人伝』に代表される江戸時代の奇人伝ブームの|魁《さきがけ》となったのは、ほかならぬこの書であった。面白いのも|宜《むべ》なるかなである。  見覚えのある逸話あり、見覚えのない逸話ありで、面白さにつられてそれらの出典調べをやってみると、けっこうこれがまた面白い。そして、その面白さをあちこちで|吹聴《ふいちよう》していたところ、東京書籍の井上浩一郎氏がこれに興味を持たれ、奇僧の逸話を手ごろな一冊の本にまとめてみてはどうか、という話になった。筆者としても、ある程度調べてあってイメージはあるし、それならば一つ書いてみようかということになった次第である。 『扶桑隠逸伝』を見せていただき、筆者の心頭に火を付けて下さった大野純一氏、海のものとも山のものともつかない怪しげな本書の企画を推進し、かつまた本書の編集実務を担当して下さった井上浩一郎氏、また、これを強力にバック・アップしていただいた山本正夫氏に、心から御礼申し上げたい。  昭和六十年九月二十一日 [#地付き]著者識す  [#改ページ]   文庫版へのあとがき  旧版が刊行されてから、早くも十二年の歳月が流れた。  この十二年間、私は何を考え、何をしてきたか。  ともかくもインド実在論の研究をひとまずまとめて文学博士号を取得した。それ以外にもいろいろな分野に首を突っ込んできた。しかし、私がこの十二年のあいだ、根本的な疑念をもとに取り組んできたテーマが、少なくともひとつはある。それは、大乗仏教批判、ひいては救済主義批判である。そして、日本仏教はすべて大乗仏教を(奇妙に変形させながら)引き継いだものであるから、私のそのテーマのかなり重要な部分は、当然の成り行きで日本仏教批判ということになる。  これは、この間、最初期の仏教やゴータマ・ブッダの思想を紹介したり論じたりする機会にずいぶん恵まれたこととも関係する。こうした仕事をすればするほど、大乗仏教、ひいては日本仏教が、仏教の出発点からいかに遠ざかっているか、いかにそれをないがしろにしているかが、ほとんど耐えがたいほどの思いをともなって浮き彫りになってくる。大乗仏教は、ゴータマ・ブッダの透徹した生のニヒリズムと経験論、それに裏打ちされたプラグマティズム、そしてかれの中道精神、これらからまったく逸脱してしまっているのである。ところが、わが国の仏教学者のほとんどは、僧籍にある人か、熱心な(大乗)仏教信者かであるため、こうした問題点を指摘することがない。たとえ薄々感じてはいても、おそらく見て見ぬふりをしているのである。嘆かわしい話であり、アカデミズムのかけらもない。  思えば、本書は、こうした私の取り組みの出発点をなすものであった。本書で取り上げた人物の圧倒的多数は、日本仏教のいわば表舞台というところで活躍した人たちではなく、表舞台を徹底的に忌避し、批判した人たちであり、したがって、ほとんどが、無名に近い人たちである。そのため、本書は日本仏教史を、ただ漠然と「正面」から知ろうとする向きからは無視されたきらいがある。空海も、法然も、親鸞も、道元もまったく取り上げてはいないのであるから、無理もないかもしれない。  しかし、読者諸氏もしっかりと目覚めてほしい。地下鉄サリン事件など、オウム真理教の恐るべき悪事が露わになってもう三年も経つ。しかし、驚くべきことに、日本仏教側、とくに仏教学者から、きちんとした視点よりするオウム真理教批判はひとつも世に出されていない。いや、真相は、驚くべきというよりも当然のことなのである。というのも、オウム真理教は、大乗仏教およびその突出形態である密教(金剛乗)の鬼子とはいってもれっきとした子供であり、したがって、大乗仏教に身を寄せる人たちは、それを批判することができないからである。それを批判するという作業は、そういう人たちにとって、みずからの依って立つ基盤を掘り崩すことにほかならないのである。  オウム真理教を根本的に批判することのできない仏教など、あるいは仏教学など、少なくとも「オウム以後」にあって、どれほどの存在意義があろうか。  そういう思いを抱きながら、本書を改めて読み直してみたが、軽微な問題を除いて、その基本構想が、古びるどころか、いやまさに「オウム以後」の今日、新鮮な光を放っているのが確認でき、著者としては安堵している。過去の遺物などを世に出しては、読者にも版元にも申し訳が立たないからである。  最後になったが、本書の文庫版化への橋渡しをして下さった筑摩書房編集部の町田さおり氏、そして編集の実務を担当して下さった同社の熊沢敏之氏に深く感謝申し上げたい。  一九九八年八月一日   蝉しぐれのなかで [#地付き]著者識す  宮元啓一(みやもと・けいいち) 一九四八年、東京に生まれる。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。国学院大学文学部教授。初期仏教をインド思想の流れの中に還元し、斬新かつ明快な釈尊像、仏教像を提示している。主な著書に『わかる仏教史』『インド哲学七つの難問』『仏教誕生』『牛は実在するのだ! —インドの実在論哲学「勝宗十句義論」を読む—』ほか 本作品は一九八五年一〇月、東京書籍より刊行され、一九九八年一〇月、ちくま学芸文庫に収録された。